200619 二人になってみたい

 タンゴをやってよかったのは、「自分を、誰かにとって唯一無二の特別な存在に育て上げる必要はない」と考えるに至ったことだと思う。
 タンゴの世界にもいろんな考え方があり、いろんなダンサーがいるが、おおまかにみれば多くの人が、いろんな人と踊るための技術を磨いている。タンゴ文化の中心は、ミロンガと呼ばれるダンスパーティだからだ。そこでは、名前も知らない、今まで一度も会ったことがないような人とも、目配せ一つで親密に踊ることができる。
 もちろん特定の相手との踊りを極めようとする人もいるし、一定以上のレベルの相手としか踊らないという人もいる。だけど、タンゴの文化の根底に「即興」というアイデアがあり、その即興性が踊りの組み合わせにもおよぶということは、だいたいの人がわかっていることではないかと思う。
 その世界観の中にいると、自分がそして相手が「代替可能」な存在であることがひしと理解できる。それを特にネガティブには感じない。むしろ、とても美しいことだと思うのだ。
 私は誰とでも踊れる。この人は私以外の誰とでも踊れる。
 誰もが匿名の存在として、匿名の相手と踊っている。
 なおかつ、ひとりひとりの体の奥にはその人にしか持てない魂の色彩があって、その日のその瞬間、その二人の組み合わせでしか発生しない色の混ざり合いが、音楽に溶け込んでいるのがわかる。
 誰と誰の組み合わせであってもいい。だけど同時にその組み合わせは、他の何にも替えがたく尊い。そのことの素晴らしさ。
 タンゴの世界に引きずり込んだ友人のひとりは、レッスンをはじめて早々にそのことを感じたらしく、食事をしたときにエヴァに喩えてこんなことを言っていた。
「エヴァのカヲル君が『君とならできる。2人でリリンの希望となろう』って言ってたじゃないですか。でもタンゴって、『君とじゃなくても希望になれる』なんですね、良い意味で」
 すばらしい喩え! とひとしきり盛り上がったものだが、実際にこれはそうだと思う。タンゴは二人で踊りの世界に入っていくものだが、二人きりの世界に耽溺して終わるわけではない。これは「大勢の中で二人になってみる」ダンスなのだと、私は思う。二人になって、大勢を、ソーシャルを、世界を二人で分担して踊るものなのだと。
 恋愛とか性愛とか、時には友情やビジネスの関係だって、結局はそうなんじゃないかと思う。相手にとっての特別になろうとするのではなく、ただ世界を分かち合って二人になってみること。
 そんなふうにやっていけたらな、と思うと同時に、そんなふうに踊る時間をいつになったら取り戻せるのかということが気になる。

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