見出し画像

妊婦36歳、リストラされたけどわりと元気【退職エントリ?】

はじめに

世はまさに大レイオフ時代という今日この頃、所属先のIT企業でもこの度大規模レイオフが開催され、私宗岡未樹は退職勧奨を経て3月31日をもって退職しました。

現在妊娠6ヶ月、一般的に言えばすぐの転職なども難しいタイミングでの退職です。こんな珍しい体験なかなかできるこっちゃない、ということで人生初・退職エントリというものを書いてみることにしました。といっても退職エントリがどういうものかあまりわからないまま書くので、「全然退職エントリじゃない!」と思われたらすみません。

なお、レイオフだリストラだというとネガティブな内容を想定されるかもしれませんが、特にそういう話は含みません。会社名も書かないでおきます。簡単に言うと、「もともとフリーランス志向だったし、いつクビになってもいいように準備していたので会社を辞めることに異存はなかった」というのが私の偽らざる状況でした。

ただし、これは非常〜〜〜〜〜〜〜〜にレアなケースだと思います。普通に考えると、「アラフォーで妊娠中でリストラ」というのは会社就労をベースとしたキャリアを構築していく上では大ピンチなわけで(いや、私も心境的に平気なだけで状況としてはわりと大変なんですが)、同じような状況の女性が他にも少なからずいるのだろう、と考えるとうむむという感じです。もちろん妊娠以外にも、ご本人や家族の病気、介護、育児などさまざまなライフステージ上の難題がある方も多いだろうし、そうでなくてもレイオフなんかされたくないに決まっています。大規模レイオフが起きない世界になってほしい。本当に(規模を問わず不当なレイオフがあってはならないのは言うまでもない)。

しなしながら、今回の私の退職エントリは特にそういった事情で困っている方の参考にはならないと思います。以下書くのは「私の場合はどうだったか」という話にすぎません。ただし、就職時に警戒したことや貯蓄の考え方など、もしかしたら私と同じようなフリーランス志向の人間には参考になる点もあるかもしれません。まあ基本的には「世間にはこういう人間もいるんだなあ」という程度のノリで見ていただければ幸いです。


宗岡の基本情報

だいたいこんな人間です。

  • 1987年生まれの36歳

  • 名古屋育ち、大学卒業後はずっと首都圏

  • 上京後、フリーライターをやりながら時々会社勤めをするスタイルで生きてきた

  • ライターとしては書籍の構成などしていた

  • 数年おきにコミックエッセイ本も出している

  • これまでの勤務先(派遣なども含めて3〜4社)に一貫性はない

  • ので履歴書はグチャグチャ

  • きり丸級のドケチ

  • 2020年、33歳で3歳上の男性と結婚

  • 現在初めての妊娠6ヶ月



どんな会社でどんなことをしていたのか

この5年ほど、アプリを作るベンチャー企業(以下A社と記載)でオペレーション管理や構築の業務を担当していました。基本的には「オペレーションのアウトプットのクオリティレベルを、365日一定に維持すること」がミッションで、会社のフェーズの進展やアプリのアップデートに合わせてシステムやツールの改修を行なったり、人力によるオペレーションのルール策定・調整をしたり、といったことが主業務になります。

と、こういう説明をするとなんのことやらという反応をされることも多いのですが、要は顧客へのサービス提供のために必要な細々した雑務全般です。飲食店にたとえるなら、「フロアとキッチンにそれぞれ何人配置する?」「フロアスタッフにはどんなルールを覚えてもらえばいい?」「注文受付からサーブまでの時間を効率化するために何をする?」といったことをちまちま考えては店長やオーナーの意向を伺い、許可を得てから実装する係、みたいな感じでしょうか。もちろん実際は、この雑務にもさまざまなジャンルがあってチームごとに担当区分があり、私が関与していたのもごく一部です。

全体的には現場寄りの仕事ばかりしている万年ヒラ社員でしたが、一点特殊だったのは「オペレーション内容やルールを人に教える・伝える」仕事をチーム内で集中的に引き受けていたところだったかなと思います。私はアルバイトオペレーターを一年ほどやったのちに正社員になったため、オペレーター経験のない社員よりも実作業の機微を言語化しやすかったんですね。説明資料やルールブックを作ることも苦でなかったため、働くうちに自然と「研修担当」みたいなポジションに収まっていました。関係チームの人間だけでなくもっと社内に広くこの業務のことを知ってもらいたいと思い、部門や役職問わずオペレーション業務を体験できるプログラムを立ち上げて運営していたりもしました。

在籍中にやっていたことを思い返すと、とにかく「(ルールブックなどを)書きまくっていた」「(研修のために)喋りまくっていた」ことが蘇ります。社員になってからの1〜2年は腱鞘炎になるくらい社内文書を書いていたし、退職前の1年間は社内報の編集にも関わっていたため、よく「結局ライター時代と同じようなことをしている……」と思っていました。これも三つ子の魂百までみたいなものでしょうか。


フリーライターがどうしてIT企業に入ったのか

私がこの仕事に携わるようになったのは2018年から。それ以前は主に書籍やインタビュー記事の構成を手がけるフリーライターをしており、IT企業との縁はまったくありませんでした。個人的にITツールを使いこなすようなこともなく、むしろインターネットでの情報収集やスマホの活用を極力避けていたくらいです。だからこの時までこの世にこんな仕事があるとは知らなかったし、まさか自分がそういうことをするなんて想定したこともありませんでした。

そんな人間がなぜオペレーション管理などという仕事に就いたかというと、先述の通り、オペレーターのアルバイトに入ったことがきっかけです。

2018年の春に、A社でバイトをしていた物書き業の先輩から「この春でバイトを辞めるんだけど私の後釜として入らない? 時間の融通が効くから文章仕事との並行がしやすいよ」と声をかけられました。同時期にたまたま別の友人もA社にいて誘ってくれたため、ご縁を感じてそのまま入社。文章の仕事をしながら週に2日くらいのらりくらりとバイトしていたところ、チームの社員から「今社員採用をしている。宗岡さんなら条件に合うから面接にチャレンジしないか」と誘われて入社に至ります。

入社の理由はいくつかありましたが、最終的には会社のミッションへの共感が決め手になりました。もともと「それは私が物書きとしてやりたいことだな」と素直に思える内容だったし、面接を進むごとに「個人でものを書くだけではできないことに、この会社の人たちと挑戦してみたいな」という気持ちも湧いてきました。個人プレイしか好きじゃないと思っていたので、「こんなふうにも考えられるんだ」と感慨深くなったのを覚えています。

ただ、面接ではCEOから「OKRが何の略だかわかってますか?」と聞かれ「いいえ」と即答していました。よく受かったもんだ。


働く中で苦労したこと

週5日もオフィスに行くのが最初は苦痛で気絶しそうだった。

そんなこと、と思われそうだけど本当にこれは慣れるまで辛かったです。なんせそれまでの数年、寝起きの時間含めてスケジュールの大半を自分で決めていたわけで、急に「決められたスケジュール」で動くようになったのは大転換だったんです。ここは実はコロナ禍によるリモートワーク化でさらに過酷になっていくのですが……。

もう少しちゃんと仕事の話をすると、徹頭徹尾プログラミングで構成されたサービスシステムや業務ツールの世界観に馴染むのには苦労しました。畑違いの仕事にいきなり飛び込んだのだから当然ですが。

特に大変だったのは、データベース的な考え方の習得だったかなと思います。私の関わっていたオペレーション業務では常時数万〜数百万という大量のデータを扱い続けるため、「目の前の情報とベタに向き合う」だけでは何も課題が解決しません。これは脳みそが昭和な私にとってはかなりの新世界で、「あらゆるデータはメタデータを使って管理しなければ活用できない」「そのメタデータ自体をリレーショナル管理しないとデータは無限に重複していきトラブルの元になる」といった”真理”を体に叩き込むまでには少し時間がかかりました。その上で、データひとつひとつを個別に見たり特定のカテゴリごとに見たり、量を見たり質を見たりそれらを組み合わせたり。量だけ機械的に見ても何もわからないし質にとらわれて感情的な判断をしても何も進まないし、原稿作業と違って手元には何一つ”モノ”がないのにあきらかにPC画面の向こうには散らかったデータの山(万単位)が見えて気が重いし……。永遠に終わりのこない作業の中で、「ジャマモノなんて消して世界中全部変えてしまえれば……」と何度思ったかわかりません。

まあでもやれば慣れるもんですね。社員になって一年後には、勝手に書いたSQLで気になる数字の動向を把握したり、AirTabelで広範囲のデータをリレーショナル管理するためのプランを練って関数書いて実装したり、そのくらいのことはまあできるようになっていました。この過程で前述のAirTableやZapierをはじめ、いろんなノーコードツールの活用もある程度できるようになったのがとてもよかったです。今後の人生にも間違いなく役立ちそう。

私と入れ違いに退職した前任者がこの辺りのエキスパートで、それをバイトとして眺めていた時は「んなこと文字しか書けない私にできるわけね〜」と思っていたし、社員になる前は彼女にもそう泣き言をたれていたのですが、その時こう返されたことを覚えています。

「今は難しく見えるだろうけど、これって要は『何のために、どの概念をどう可視化して並べるのか』っていう理屈を考えられるかどうかだから、言語化能力があれば大丈夫。というかみきさんの場合は、最終的にはその理論を明文化して、作業が得意なタイプのメンバーにそれを伝えることの方が仕事になると思うよ」

これを聞いたときは「ほんとか〜!?」と思っていたんですが完全にそうなりました。意外とライターにもできる仕事かもしれません。


会社を通じて何ができた?

正直言ってわかりません。

先述の通り、私がやっていたのは「とあるサービス上の、ある一部分のクオリティの維持」です。その「維持」のための努力が会社にとって、そしてひいては社会にとっていったいどのくらいの価値を生んでいたのか。在籍中からずっと考えていましたが、まあわかりやすい答えは出ないですね。

インフラの保守などと似ているかもしれませんが、こういったある種のオペレーション業務の「成果」は、最終的には「何事も起きていないように見える状態」です。だから評価が難しいし、取り組んでいる側が何かしらの「実感」を得る機会が少ない。失敗はわりとはっきりしていてガガーン!となるんですが、成功はとても儚く透明です。たしかに私たちのチームが頑張ったことで、サービスの一部分のクオリティは維持されたのかもしれない。でもそれが売り上げやユーザーの満足をどのように支えていたのか、伸び代を作っていたのかといったことは検証しづらいのです。社内外でオペレーション系の業務に取り組む人と会話をすると、同じような悩みをしばしば聞きました。

もちろん、社内的な価値判断はするしされます。でも、それのみを決定的な「価値」だと実感しながら仕事をするのは、私にとって難しいことでした。これは私の在籍期間が、会社の規模が急拡大する過程と重なっていたためでもあるかもしれません。規模が大きくなればなるほど、業務はどうしても細分化・専従化されていきます。さっきの飲食店のたとえに戻ると、「フロア全体の管理を大づかみに任されていたのが、最終的には『メニュー表を分かりやすく改良する作業』だけ任されるようになる」みたいな変化が起きるわけです。もちろん任されたからにはメニュー表の改善を頑張るわけですが、それがじゃあ店全体のクオリティにどう影響しているのだろう、ということは自分ではよくわからないし、上司からのお褒めの言葉や会社の売上報告だけ見ていてもやっぱり実感というのは持ちづらい。たとえフロア全体を任されていたときのある種の全能感の方が勘違いだったのだとしても、心もとない気持ちになります。

ただひとつ言えることとしては、私はこのオペレーション業務のことをとても大事な仕事だと思っていました。心もとなくても熱意を持って続けられのはそのためです。

幸い、一緒にこの業務に従事した仲間たちは皆それぞれそうで、「どうせたかがメニュー表だから」と見下すことなく、「私たちのメニュー表は基準値を超えているから完璧だ」と自惚れるのでもなく、あらゆる仮説と迷いを抱えたままこの仕事に携わり続けていました。そのこと自体が、会社やサービスを通じて社会に展開していく何かの一助になったことを願わずにいられません。答え合わせはしようがありませんが。


過酷すぎて夜中にワーン泣きした時期のこと

コロナ禍でのハードワークはきつかったです。もちろんこの時期大変な思いをした人はたくさんいたでしょうし、医療従事者の方などと比べれば屁のようなレベルですが。

細かい説明は書いても仕方がないので省きます。まあとにかく猛烈に忙しかったんですね。コロナの影響を直に受ける会社だったのでこれは致し方ありません。当然私だけがこうだったわけではなく、上司同僚みんな同じ状況なんですが、ウルトラの星から来たんかというレベルで超人だらけの会社なので、みんな平然としていたりするわけです。いやはや。

このさなかに私は結婚をしていまして、私よりあとに新居に入居してきた夫はまず、リビングテーブルにPCを据え、怒鳴るような勢いで上司たちと業務上のやりとりを行う血走った目の新妻の姿を見ることになりました。夫からその日の夜、「みきさんが本当に忙しいんだということがよくわかりました……」と言われたのも思い出深いです。

で、私は残念ながら超人じゃないのでこの生活が一年以上続いたあたりで完全におかしくなり、2021年の春先には不眠と動悸が加速。夜になると布団の中でだらだら涙が出てしまうということも続き、端的にやべえなと思っていました。数年前に過労で鬱になった時とほぼ同じ症状だったんですよね。そんなある日、寝る前に夫からちょっと心配されたことを引き金に涙腺が爆発してワーン泣きをしてしまい、結局二ヶ月休職します。

怪我の功名だったのは、この時期を経て私の少しあとに社員になった優秀な後輩二人が、私の不在などものともせず若竹の如く一気に伸びたこと。休職から戻ったときの彼らの様子を見て、「もう私がいなくても完全に大丈夫だな」と思ったのを覚えています。


レイオフを受けてどうだったか

そうこうしながら過ごしているうちに、今回リストラということになったわけでして。

この発表、私は初期の妊婦健診を受けるため大学病院に行っている間に見たんですよね。診察室に呼び出される寸前に発表を見て、「ありゃ〜マジかいな」と思いながら診察台に上がり、気もそぞろな感じで医者の「赤ちゃん、元気に育ってますよ」という言葉を聞きました。この日に初めて明確な「胎児」としての形状を確認したものの、本格的に妊娠状態になったらしいことを実感する前に、リストラの方を実感してしまいました。

率直に言うと、会社がこういった決断をしたこと自体への衝撃はそこまでなかったです。まあITベンチャーだからまあそういうこともあるだろう、くらい。この時点ではまだ私は退職勧奨を受けていませんでしたが、120%自分も対象だと確信していたし、実際にその後連絡がきました。

私が妊娠していることは上司や同僚の一部にすでに知らせていたため、「妊娠中の従業員がレイオフ対象になるなんて」という動揺の声も多少ありました。これ私も今回初めて調べたのですが、妊娠を理由にした退職勧奨や、育休・産休中の退職勧奨は違法になるものの、妊婦を妊娠と関係ない理由でリストラすることは別に違法じゃないんです。とはいえ、無理矢理別の理由をつけて妊婦を退職させようとしてもそれは裁判したら会社側が負けます。怪しい退職勧奨を受けたら突っぱねましょう。

妊娠を知っている諸先輩方からは、「育休手当を取るために退職勧奨を拒否するべきだ」というアドバイスも何度ももらいました。が、それは考えませんでした。前年から大幅な時短勤務に切り替えたため基本給与も下がっており(育休手当はこのさらに5〜60%の額)、退職金と比較してそれほど利点が大きいわけでもなかったんですよね。何より、5年近く勤めて「もういろいろやることはやったし、次に行きたい」という気持ちにもなっていました。

もちろん、同じような状況の人にそうせよと言うつもりはまったくないです。ただ、私の場合はとにかく自分のモチベーションと時間が惜しかった。退職勧奨を受け入れるまで説得の1on1を繰り返されたりしている暇はないし、無理矢理会社に残ったところで健全な気持ちで就業し続けられるできる気もしない。だったらさっさと切り替えて次の準備をしよう、と思いました。「もらえるものはもらうべきだよ」という言葉も何度か聞きましたが、もらえるものをもらう代わりに別のものを失うのが嫌だったというところです。この道でよかったかどうかはまあ3年後くらいにわかるんじゃないでしょうか。

会社については、いろいろ大変だったし最後もバタバタしたけれど、一言で言えば「楽しかった」が全てですね。面白い人たちと知り合えたし、プライベートで付き合うくらい仲良くなれた人もいました。ここでなければ見れない光景を見られたし、ここでなければわからなかったであろう社会の動向もたくさん学ぶことができました。嫌だったことも含めて、私にとってはこの経験が大きな財産です。


そもそも会社に入るのはリスキーだと思っていた

私が退職勧奨を受けてすぐさま気持ちを切り替えられたのは、そもそもA社に入社するタイミングで「いつでも辞められるように準備しながら働こう」と決意していたからでもあります。そうでなかったら、私ももっともっと動揺していたかもしれません。

アルバイトから社員へのチャレンジのお誘いを受けた当初、実を言うとあまり乗り気ではありませんでした。理由は複数あったのですが、ツートップは「①ものを書く時間がなくなるのが嫌」「②収入源を会社の給与に依存するのが怖い」というものです。

①に関していえば、この時はちょうど「細かいライター仕事を一旦止めて、時間をかけて作品づくりに取り組みたい」と思っていたところだったんですよね。そのために、インタビュー仕事や書籍の構成仕事の依頼もほぼ断っていました。マンガだけでなく文章でも自著を出したい、多少貯金を食い潰してでもそのための時間を確保したいと思っていたので、ここで会社にフルコミットというのは……と悩みました。

②もある意味同じような話です。私はその時々でやりたいことが移ろいやすいため、生活費を得るための活動を複数パラレルに走らせ、いつでも好きなものを好きなように引っ込める生活をしていました。A社でのアルバイトをしていたのも、文章仕事と別の定期収入を少し持っておきたかったから。なので、時間と交換で「月収」がどかんと入ってくる生活に切り替えることに不安がありました。「会社勤めを続けないと成り立たない生活」になってしまったらどうしよう、という危機感が強かったんです。

ただ悩みに悩んだ結果、最終的には「一回、この会社で頑張ってみよう」という結論を出しました。①については、ブラックな働き方を要求される会社ではないしセルフコントロールさえできれば長期戦の制作はできるだろう、いやそうできる自分になろう、と決意。②についても、「一旦会社員になってがっつり稼ぎつつ、いつでも辞められるくらいの生活基盤を作ろう」と考えました。要は「どんな状況でもやりたいことをやり続けられる体制」全般を強化する方向で意思決定したわけです。


「明日クビになっても大丈夫なように」していた準備

私は基本的に楽観的な方ですが、一方で常に「最悪の事態」を想定する癖があります。

そんなわけで、私は会社に入社すると同時に「明日にはクビになるかもしれない」「来月には会社が倒産するかもしれない」「ていうか私自身がすべてを嫌になって放り出すかもしれない」といった「最悪の事態」を複数想定し、実際にそうなっても大丈夫なように全力で準備し始めました。

具体的にやったことは「経済基盤を整える」「健康な生活を送れるようにする」「個人事業の方も手を止めない」です。

経済基盤

まずはとにかく、消費水準をむやみに上げないように気をつけていました。A社は給与水準が高いため(※エンジニアサイドは違う認識があるかもしれない)私もトータルの年収は上がりましたが、「これに慣れるわけにはいかない」と思ったんです。別に法外な額をもらっていたわけではありませんが、直感的な違和感というか、「これが続くとは思えない」という感覚があったのは事実です。私が今後転職するとしても、”同じ業務内容と量”でA社と同じ額をもらえる会社があるかというと厳しいはずです。

なのでそれ以前と変わらないドケチ生活を心がけて、なるべく余剰金を多く作るようにしました。イデコと積立NISAを始めて月収の一定割合は投資信託に回し、医療保険の見直しをして、とっちらかっていた銀行口座を整理。銀行には「明日から一切働かなくても2年は生活を維持できるくらい」の額をキープしつつ、貯蓄額が私の考えていた目標額に達したところで奨学金も残り10年分を一括返済しました。大学入学以来、15年ぶりに借金ゼロの状態になれてめちゃくちゃホッとしたものです。

健康な生活

とはいえ、生活の楽しみを全部封印したわけではないです。入社前からハマっていたアルゼンチンタンゴには毎月かなり出費したし、体を鍛えたくてトレーニングジムやらピラティスやらにも行きまくりました。ただ、このあたりは未来に向けての投資だとも思っていました。30代後半に向けて、いよいよ健康資産が重要になってきたと実感していたからです。だから酒もあるときから完全にやめたし(もともとほとんど飲まないんですが)、寝具にもある程度お金をかけました。このあたりは、実際36歳になってみて大正解だったと実感しています。

生活基盤を整えるためではなかったのですが、結果としてこの時期に私は結婚もしました。生活や経済の基盤を整えていったからこそ結婚する気持ちの余裕や勢いが生まれていたのかもしれない。配偶者への条件は「結婚と子育て(血縁にこだわらない)に乗り気で享楽趣味でない」以外にあまりつけていなかったけれど、たまたま性格的にも職業的にも安定した男性とご縁があったため、結婚生活はとても平和です。

個人事業

個人事業については残念ながらだいぶペースダウンしてしまいましたが、それでも少しばかり文章の寄稿をしたり、2年ほど月刊誌でマンガの連載をすることもできました。会社員をしながら漫画の連載ができたというのは自信になったし、スケジュールの管理の腕も前よりは上がったと思います。


こういったことを進めた上で、去年の後半からは大幅な時短勤務に切り替えて不妊治療と個人事業の強化のための時間をとっていました。これがはからずも、今回の退職に向けての助走期間になってくれた面もあります。貯金を食い潰すことにはなりますが、妊娠期間の後半をのんびり過ごせるのはそれはそれで嬉しいし、無事産まれてさえくれればあとの仕事の立て直しはどうにでもしてやると思っています。

ちなみに同じくリスクヘッジ志向の同僚は、A社に入社してからもずっと、ゆるいペースで転職活動を継続していました。なのでレイオフ発表があったその時点で、普通に採用面接が進んでいたりしたそうです(もちろん転職先はすみやかに確保)。

「だって会社がいつどうなるかなんてわからないし、私は年齢的にも厳しいですから。業界動向を探る上でも有用ですし。まあ、会社の財務状況を確認してもっと早くこの事態を推測できればよかったなという反省はありますね」

と言われて、私とは全然違う的確なキャリア保守のスタイルに感服しました。来世で会社勤めベースの人生を送るなら真似したい。


今と今後について

えらく長く書いてしまいました。

ともあれ、私はこの4月頭から所属先なしのフリーランスに戻りました。もちろん開業届は出してあるけど、直近何か仕事があるわけではないので実質無職です。刻々とでかくなっていく腹を見下ろしながら「ゼルダの新作早くやりたいな」と思っているだけのモラトリアム妊婦をやっています(たぶんやりすぎると思うのでゼルダ新作は産む寸前に買う)。

そんな私が今何をしているかというと、今後の持ち込み用の作品を作ったり、フリーランス時代と同じくらいの制作リズムを取り戻せるように毎日ストップウォッチ片手に悪戦苦闘していたり、あとはとある資格を取るための勉強をしていたりという感じです。この資格を使った専業の何かをするかは未定ですが、ひとまずスキルを学びたくてオンラインスクールの受講を始めました。出産までには資格を取り終えるつもり。

今後のことについてはぶっちゃけまだわかりません。このまま健康に出産を終えられるかもわからないし、産まれてくる子どもがどういう特性を持っているかも未知だし。でもどうなろうと、やりたいことをやり続けられたらいいなと思います。

そのやりたいことについて、もう少しちゃんと書こうと思っていたんですが今回は長くなりすぎたのでこの辺で終わり。

せっかく無職になったので、無職になった妊婦が今後どのようにやりたいことをやっていくのかあるいはやれないでジタバタするのか、このnoteで書いていけたらと思います。また気が向いたら読んでやってください。

ではでは、長文を読んでくださってありがとうございました!


Twitter

読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。