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αーLCRが電気通信に家電メーカーを巻き込んだ

noteを始めて間もないのに、かつての同僚が私の記事を千本氏に知らせてくれたようで早速連絡があり、昨晩夕食のお招きを受けた。相変わらずのせっかちである(笑)「わたしの第一印象は最悪だったらしいな」開口一番に言われ「すみません、筆がすべって」と言い訳すると「あの頃は私もとんがっていたからな、でももう喜寿だ」と笑って許され、懐かしい話に花が咲いた。近著をいただいたので早速開く。

第一章 なぜ私が起業し続けることができたのか、いきなりずばりの問いに、ページをめくったとたんに答え…… 「出会い」が力を与えてくれる

事を成した人は、決して自分だけでできたと思っていない。もちろん努力も苦労もしたけど、でもあの時にあの出会いがなければ、とその運に感謝している。小島先生のことなどを思い出すにつれ、恩師に直接会って報告できるのは僥倖。一方で、もう会えなくなってしまった人もいるから、やはり書き留めておきたいのかもしれない。

さて、昨日の続き、αーLCRのチップの開発が終わり、家電メーカーの電話機やファックスを扱う事業部に営業をかけ、鳥取三洋電機のsanfax5への搭載が決まった。技術のF部長、営業のN部長の鳥取出張に私も同行することになる。私の仕事は事務企画である。

事務企画部は情報システム部のS部長が創設したシステムの前線基地、当然S部長の兼任。物品販売と違ってインフラは、加入申込だけでは売り上げが上がらない。加入者が電話を使ってくれて、通話履歴を元に電話料金を請求して、それを払ってもらって初めてお金が入ってくる。だから、顧客管理と請求は電話会社の生命線である。加入者数は100万単位、その顧客全員の電話の記録を毎日集計して毎月請求書を出す。クレジットカード会社の比ではない。カードでお買い物する頻度と、電話をかける(今ならメールやメッセージも全部含む)頻度を比較したら、電話屋の処理する情報量が桁違いだとわかるだろう。DDIでも多摩のネットワークセンターにホストコンピューターを設置、その1階に巨大な封入封函機(請求書を印刷してチラシなどを入れる)が並んでいた。

通話記録CDR(call detail record)は交換機に貯められ、交換機側で集計したデータを毎晩ホストに転送する。ホストコンピュータでは、顧客ごとの通話履歴につけかえ毎月の請求の準備をする。ホストが扱う通話データは膨大で、かつ請求データに絶対間違いがあってはならない。いきおい、バッチ系のシステムは信頼性が最重要課題となる。バッチ系とオンライン系では、システムコンセプトが違う。

LCRアダプターやαーLCRなどの新しいしくみが導入されると、情報システム側にも開発が必要になる。ダウンロードデータ作成や、料金改定時の料金表の共有、顧客データベースや電話応対用の各種画面など、変更や追加が膨大だった。営業や業務部門からバラバラと依頼がくると情報システム部のSEは混乱する。業務部門のリクエストを聞き、事務フローを整理して、システムへの要望をまとめる。このために事務企画部が創られ、カスタマーサービスセンター(CSC)、アダプターサービスセンター(ASC)など事務処理センタでで一番詳しい人でが集められた。わたしはそこでαーLCR担当。つまり、αーLCRに関しては、営業、技術、情シスの橋渡しをする何でも屋である。

αーLCRのマイクロチップを内蔵した電話やファックスを顧客が購入して電話回線につなぐと、あらかじめチップに書き込んであった電話番号に発信する。電話番号の先はαーLCRオンラインホスト。そこから出力される電話番業リストをもとに、当該電話番号にDDIの加入申込書の勧誘をする。ファックスならファックス、ファックスが受信拒否だと電話する。「あなたのお使いの電話機には特別な機能が搭載されていて、それを使うと電話料金が安くなります。申し込みは無料です」お客様にはいいことづくめなのだが、新しい電話買ってつないだだけで、どこかにつながって勧誘電話がかかってくるのって怖い、怪しい。当時はダウンロードの概念なんてなかったから。

そういったクレームはメーカーに来るので、それを少しでも回避するために、機器の同梱マニュアルにαーLCR機能の説明ページを追加してもらう。DDIの簡易申込書のチラシを刷って同梱を依頼したり、販促用にテレホンカードを作ってキャンペーンチラシを作製したりもした。デザイナーに依頼する予算はなかったので、週末、身内にイラスト描いてもらったりもした。

当時まだテレマーケティングの概念すらなかった。DDIのカスタマーサービスセンターの基本は、申し込みやクレーム対応の受信オンリー。DDI社内で発信していたのは料金督促チームのみ(これはNTTで同種の仕事をしていたおじさまたちが担当)顧客の感情を損なわずに発信マーケティングのノウハウがなかったので、アメリカで勉強した人がテレマーケティングセンターを起業したので、近くに見学に行き、業務委託した。同時に、申し込みやダウンロード管理をするα―LCRセンターを社内に作り、新しくアサインされた業務担当部長や派遣社員に教育したり、備品を準備した。すべての稟議書も書いた。

α―LCRセンターの準備が整うと、社内説明。全国の営業所や各拠点のCSCで説明会を行った。αーLCRの機能説明と、顧客対応、クレーム処理のためのQ&Aなど。αーLCRはまだ海のものとも山のものともわからなかったので、お金がなかった。そういえば、資料作成も出張もいつも一人だったなあ。稟議書も全部書いた。

N部長、F部長との出張もいつも日帰り。朝一の飛行機で羽田から鳥取へ。東京行きが朝晩2便、大阪行きが昼1便だけと鳥取空港は寂しい。飛行機の到着に合わせて出るリムジンバスで鳥取三洋電機のファックス事業部へ。打ち合わせを終えるとすぐさま、飛行機で大阪の三洋本社へ。当時、松下を筆頭に家電メーカーは事業部制が主力だったので、製造は各事業所(ものによっては別会社)だが、ブランド統一のために営業や広告宣伝は本社一括で行うところが多かった。販売網への通達は営業部、新商品告知にもαーLCRの文字を入れてもらうために広告宣伝部に説明説得に回った。新大阪からは新幹線。駅弁にビールをつけて、長い一日を慰労しあったものだ。

三洋にはご縁があった。政経塾で最初の現場研修として工場実習があった。従来は松下電機の工場や販売店に実習に行くのだが、わたしたち8期生から、日本の構造不況をテーマに各地にご縁のあった企業にばらばらに派遣された。宮田塾長の新日鉄釜石や松下電池など。私は政経塾の理事でもあった後藤清一さんの紹介で三洋電機加西工場で2か月間の研修をさせていただいた。加西は三洋創業の地、回転機事業部は一番古い。三洋の創業者は松下幸之助の義弟(奥様の弟)井植歳男。松下電器産業(現・パナソニック)創業から幸之助さんを支えた。戦中、軍の要望で松下は飛行機の製造を手掛ける。その舞台となったのが加西工場である。木製の飛行機は飛ばずに終戦迎えたが、そのことで幸之助氏と井植氏はGHQによる公職追放を受ける。事業にタッチできないときに幸之助氏が始めたのがPHP研究所である。しばらくしてGHQによる公職追放が解けるが、その条件がどちらか1名の退社。井植氏や松下を退社して三洋を起業する。当時の松下のブランドはナショナル。「明るいナショナル」の宣伝歌を覚えているだろうか。日本国中を明るくするのが松下の使命なら、日本以外に出ていこう。夢は大きく三洋(太平洋、大西洋、インド洋)を目指して名付けた。井植氏の番頭だった後藤清一氏っは創業時の加西工場長、当時は三洋の天皇と呼ばれていた。後藤氏は松下電工の丹羽会長と共に、塾のご意見番、政経塾生に三洋発祥の地で研修させたいと要望した。回転機事業部は、飛行機のプロペラの技術から、洗濯機や掃除機など内部に回転モーターを持つ商品を製造していた。加西工場には三洋資料館があり、21世紀になってパナソニックに吸収合併されるまで存続していたという。

三洋ファックスでαーLCRの搭載が成功すると、家電各社から追随し、搭載機種が増えていった。メーカー各社のDDIへの対応もどんどん良くなっていった。しかし、それらの接待を受けられるようになる頃には私は次のプロジェクトに移っていた。





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