20年前の致知の写真

20年前の『致知』に残っていた恩師との約束

お茶会で松永安左エ門のことを思い出し、恩師・小島直記先生の著作を引っ張りだした。そのときに一緒に出てきたのが、雑誌『致知』の1999年12月号、なんと20年前のもの。小島先生は晩年この雑誌に「人生時刻表」として日常雑記の連載を持っていた。講義を受けたり、お礼状を書くとそこに引用され、名前が入った号を送ってくださった。そのうちの1冊だ。

小島先生の書生を断り、創業間もない第二電電に入社した。自分にしか書けないテーマを探すために、まずは社会を見なくてはと思ったから。(詳細は前日note参照)それなのに、小島先生は変わらず、手紙その他で励ましてくださった。

当時の第二電電はまだ上場前で、長距離電話、携帯電話、PHS、海外投資…… もの凄いスピードで新規展開していた。少ない人員の中で、若い私も最先端の企画に携わることが多かった。日々の仕事は面白かったから必死で働き、未来を見つめて飛び回った。だけど、人生をかけて自分が追及すべきテーマは見つからなかった。エンジニア出身でない私にとって、技術革新の延長線は所詮他人事だったのかもしれない。

退社して、子どもを授かり、小樽にある絵本・児童文学研究センターの通信講座を受講し始めた。日本児童文学史の講義の中で、石井桃子を知った。「戦中、国体に迎合しない文化人たちが未来ある子どもたちのために作っ日本少國民文庫、このグループの良心ともいうべき精神は戦後も引き継がれ、その代表が石井桃子である。」工藤先生のこの言葉が、私の中の何かにピタリとはまった。

小島先生が志をもった男たちを書いたのなら、私は志をもった女を書いてみたい。そのときの興奮そのままに、小島先生に手紙を書いたのだろう。そして、そしてそれを小島先生が活字に残してくれた。私の人生のテーマ宣言ともいうべきこの記事を大切に保存していた。

先生との約束を果たすには、それからまだまだ長い年月がかかった。政治家の評伝を書くために、奥様の着物を質に入れて、「帝国議会議事録」全巻を買い込んだ先生に報告するのだ。なまはんかなことでは許されない。伝記とは、その人の本質、つまり、その人物が人生をかけた仕事に他ならない。それを調べ上げて初めて書ける。小島直記伝記文学館の資料庫は凄かった。

そう考えて、石井桃子の仕事をたどっていくと、石井の最大の業績は翻訳だということがわかってきた。しかし、法学部出身の私には文学の素養がない。小島先生にとっての東大経済のようなベースになる学びが必要だ。覚悟を決めて、フェリス女学院大学大学院に進学し、英文学を一から学び、子育てしながら10年かけて博士論文を書き上げた。

学位論文が初単著『石井桃子の翻訳はなぜ子どもをひきつけるか』(ミネルヴァ書房、2014)となった。残念ながら、小島先生への報告は間に合わなかず、代わりに「あとがき」で先生への謝辞とともに、テーマ発見の経緯を書いた。

この本を読んだ編集者からお声がかかり、「伝記を読もう」シリーズの1冊として『石井桃子 子どもたちに本を読む喜びを』(あかね書房、2018)を書かせていただいた。私としては初の伝記である。しかし、これは子ども向き、いつかは大人向きにも書きたい。漠然と思っていたら、年末に、石井桃子の生まれ故郷である埼玉県の出版社から評伝執筆依頼を受けた。

伝記作家の中には、次々と新しいテーマに取り組んでいく人も多い。小島先生は逆で、好きな人物を何度も書いた。一番好きな松永安左エ門にいたっては、本格的な評伝だけでも5回も書いた。

時間をかけるのは、小島先生ゆずりなのかもしれない。児童文学者としては、次なるテーマも模索しているが、自分にしか書けないテーマを人生をかけて取り組んでいく、そんな不器用な生き方、書き手があってもいいだろう。

覚悟が決まったので、3冊めの石井桃子本の執筆に本腰を入れよう。今年中に皆様の手元に届きますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?