らせんの絵2

人生はらせん階段―beingでもdoingでもなくbecoming

EMSの友人・要ちゃんがやっている哲学カフェに参加している高校生のnoteにインスパイアされた。「自己変容について彼は、ファンタジーでは何かをすることで変わったり(doing)、何かであることで変わる(being)のではなく。何かになることで変容が起こる(becoming)と教えてくれた。」

EMSでは最近よく「doingではなくbeingが大事」と聞く。doing、どれだけ儲けたとか、どんな規模の会社を作ったとか業績という外部評価だけに振り回されず、being、つまりどんな人であるかの方が重要である。それが本質。たしかに、その通りなんだけど、ちょっと違和感があった。それはたぶん、頑張ってやってきた人がもっともっとと渇望するのでなくあり方beingに注目するのはいいけど、努力もしてない人がdoingを軽んじるのはどうかな…… doingとbeingは二者択一ではなく、doingをやり切った先にbeingがあるのかな、とも思う。だとすると、beingを目指すことは、becomingと言い換えてもいいのかもしれないと思った。

ファンタジーは「行って帰る物語」といわれる。登場人物たちは、現実とは違う世界に行って、何事かを経験して帰ってくる。たとえ帰ってくる場所は同じでも、帰ってきた自分は変化している。冒険などの経験を経て成長していることが多い。

行って帰ってくる冒険物語を、児童文学ではcircular journey と呼ぶ。『ホビットの冒険』『ナルニア国ものがたり』など多くのファンタジーはこのパターン。逆にロアルド・ダールの『おばけ桃の冒険』など行きっぱなし の物語もある。それはlinear journey と呼ばれる。円環と直線の対比。

円環と直線の対比は、文学における時間の概念にも通じる。生活の時間は循環する。昼と夜が繰り返されて1日、30日前後がまとまって1か月、春夏秋冬季節がめぐると1年。一方で、歴史や時代など概念的に捉える時間は直線的に前へ前へと進む。私たちはこの2つの時間を使い分けている。

いや、使い分けているのではなく、合わせて考えているのかもしれない。回りながら進む、らせん階段のように。円を描いて同じところに戻ってくるが、帰ってきた点は一段上に上がっている。

二つの時間は、文学評論としては、ノースロップ・フライが『批評の解剖』で(筒井康隆『文学部只野教授』に引用された)、児童文学ではMaria Nikolajevaがmythic to linearで書いている。神話の時間から歴史の時間へ。

絵本作家ではアメリカのバージニア・リー・バートン。『ちいさなおうち』で円と直線の二つの時間を、『せいめいのれきし』で回りながら進んでいく螺旋の時間を描いた。絵本が手元に会ったら、円、直線、螺旋のイメージがどのように表現されているか、見てみてほしい。

beingが大事、なんて言うのは、私にはまだまだおこがましいかな…… becoming、こうなりたいというイメージを大事に、doingを重ねていった先に、いつか言える日がくるだろうか

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