しゃべるように書く人なんですね

昨晩寝る前に友人からメールが届いた。仕事関係の連絡事項の後、後輩が私のnoteを読み、その量に驚き「しゃべるように書く人なんですね」と言ったと伝えてくれた。

たしかに私のnoteは長い。思い出していると、毎日いくらでも書けてしまう。そして、おしゃべりも同じ。90分の講演なんてあっという間だし、友人夫妻と1泊で東京から福井、岐阜を回ったときも、長いドライブの間中、ほとんど私がしゃべっていたと言われた。たぶん15時間くらい(笑)

そう、聞いてくれる人がいると、いくらでもしゃべれてしまう。そして、文章もたぶん同じ。だれかに話しているつもりで書いていると、言いたいことが次から次へと湧いてくる。あれもおもしろかった、これもすごかった、あれも伝えたい、話せば話すほど、色々思い出されてくる。

私は本業を問われると、児童文学の翻訳文体研究と答えている。博論で児童文学者・石井桃子の翻訳文体を研究して、それが声の文化に根差した語りの文体であることを拙書『石井桃子の翻訳はなぜ子どもをひきつけるのか』にまとめた。子どもの本の文体研究をする際には、石井だけでなく、瀬田貞二や谷川俊太郎など、名訳者と言われる人の文体も比較してみた。

瀬田で思い出したのだが、先日、数学者の新井紀子氏が「子どもの読解力」について朝日新聞に記事を寄稿していた。子どもの読解力を問う前に、児童文学の文体が古くなっているのはないかと疑問を呈し、その例として瀬田訳『ナルニア国物語』の冒頭を引用して、一文が長く、言い回しが古くてむずかしいと指摘していた。わたしがその記事をシェアすると、瀬田ファンからのクレームがついた。「読めば味わいがある」「短ければいいのでしょうか」など、子ども時代に瀬田訳に出会った人たちである。

たしかに、瀬田さんの文章は長いかもしれない。(だから悪いと言っているわけでない、念のため)これは、石井との訳文比較でも思ったこと。たとえば、『3びきの子ぶた』では狼が「ふふうのふーとふきとばしてしまいました」と瀬田訳で一息に言うところを、石井訳では「ぷっとふいて、ふっとふいて、ふーっとふきとばしてしまいました」と息継ぎを2回入れて3文節に区切っている。男性の児童文学研究者から「ぼくは瀬田さんの訳が読みにくいとは思わないけど、読み聞かせするお母さんたちの中には息が続かないという人もいる。男性と肺活量が違うせいだろうか」とも聞いたこともある。石井さん小柄だったし。

肺活量なのか?  男性でも、石井と谷川俊太郎の文体を比べたときは、谷川の方が短かった。石井の「ですます調」に比べ、谷川の「である調」は歯切れがよい。時代のテンポなのかもしれない。小学校1年生の国語の教科書は、十数年前の長男のときは「おおきなかぶ」だったのに、今は「スイミー」だ。前者は石井桃子の時代の福音館のこどものともの文体、後者は谷川の訳。今の子どもたちは、谷川の短い文体に慣れていて、瀬田の長い文章は読みにくいのだろうか。

私自身の文体も短い。肺活量はある方だから、文体の切れは、日常のリズムと関係している気もする。私は結構歩くのが速い。村上春樹は、好きなジャズのビートにあわせてうねりのある文体で訳すと書いていたっけ。

子どもの本は、声に出すことを意識して書く。岩波の子どもの本シリーズの編集者だった鳥越信先生は、絵本の文章は出版前に編集部で何度も読み合わせをしたと言っていた。絵本だけじゃない。「ドリトル先生」シリーズを訳した井伏鱒二も、書き上げた後になんども読み上げて文章を直すから、この原稿はきつかった、とあとがきに書いている。(石井桃子が井伏に翻訳を頼み、石井が下訳もした)

わが子が小さい頃に、読み聞かせ講座に通っていたときに、先輩のお母さんから聞いた話がある。たくさん読み聞かせてもらった子が小学校に入って自分で読めるようになったときに「目で読んでいても、頭の中に、前に読んでくれたお母さんの声が聞こえるの。好きなって何度も繰り返し読んでいると、お話に出てくる人たちの声が聞こえてくるの」最初は読み手の声、作品世界に入り込むと登場人物の声が聞こえてくる。そんな読み方ができれば、当然読書好きになる。

石井桃子は代表作『クマのプーさん』の原書に出会ったとき、プーの声が聞こえたという。私はそれを声を訳す文体と論じた。

声が聞こえるような文体を書きたいとずっと思ってきたので、「しゃべるように書く人」というのは褒め言葉に聞こえた。でも、長文に付き合わされる読者にとってはどうだろうか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?