井坂康志・多田治著『ドラッカー x 社会学』の講義から

昨晩は井坂さんの渋沢ドラッカー研究会の特別講義だった。
『ドラッカー X 社会学』(公人の友社、2021年5月)の刊行を記念して、共著者2名(井坂康志さんと多田治さん)が登壇された。社会学者の多田先生は大学の授業でもこの本をテキストにして、学生の質問やコメントから、著書のキーポイントをリストアップ、それを井坂さんが解説していく。
本著さながらに対談が進んでいく。
「強みを生かす」「フィードバックのために日記を書く」「否定語法を脇に置く」など、ドラッカーが繰り返し言っている本質が網羅されていく。
私自身が線を引いた箇所にもだぶる。

でも、私が一番この本で気になったところはどこだろう? 自問する。

そんなことを考えていると、
井坂さんがシャーロック・ホームズを例にあげ「なかったことに気づくこと」の大切さを指摘する。だれも馬の鳴き声を聞かなかった、という事実から、馬を連れ去った人が馬と親しい人であるという推理を導き出す。そこにないこともまた情報なのだと。

だとすると、多田先生がピックアップしなかった箇所にこそ、私の問題意識が現れているのかも。
そう考えると2か所が見つかった。

まずは、リベラル・アーツの小見出しのあと
「ドラッカーの特徴は、自身が学んだものの玄関口だけつくると、誰か後からやってきた別の人が本館や別館を立てるのを歓迎していた点にあります。」(p117)
「彼は世から受け取った知見を他の人びとへ、時に書物を通じて世界にバス回ししていた人でもあります。バスを出すドラッカーの最大の望みは、受け取った人がさらにいいパスを回してくれることにあります。」(p118)

多田先生は、「ドラッカーはバトンを渡す人、世代間をつないでいく人」と
井坂さんは「いいパスを出すが自分でゴールしない。いいパスを出せる人は俯瞰できる人。ゲームの中にいながら、かつ外からの視点も同時に併せ持っている」と解説された。

私が見つけた二箇所目のキーワードはアウトサイダー。
「知識人がアウトサイダーとしての立ち位置を獲得したとき、もっともよく機能する」「アウトサイダー性を必然的に持つ仕事としては、ジャーナリスト、学者、コンサルタントなどがあります。これらは権力機構から一定の距離を置いて、はじめて機能する特性を持っています。」(p172)

多田先生は「井坂さんがサイードを挙げているところ」に注目し、
井坂さん自身は渋沢栄一や石橋湛山を例にあげた。
渋沢は中心にいたときもアウトサイダーの意識を忘れていなかった。いや、中心にいる人こそ、アウトサイダーの意識が大切なのかもしれない。たまたま知識を持つ立場になれたからこそ、知識にアクセスできない人を思いやる、それが知識人としての責任。

サイードについて言及されていた部分を探すと、リベラル・アーツの直前だった。(p116)
特異な体験から出発しつつも、被害者意識に固執せずに、一般化することにより普遍的な価値を追求する。ハンナ・アーレントやドラッカーは、ユダヤ人として困難な時代を生き抜きつつも、普遍的な人間の本質を追求したからこそ、広く読まれたのだろう。

知識社会といっても、知識は専門家だけにゆだねられるものではない。
ドラッカーも「偉大な素人」だった。(p116)
アマチュアの姿勢に徹して広い視野で時代を俯瞰し全体知を持つ。

俯瞰するために、広い視点を持つ。
そのためのリベラル・アーツなのだ…… と振り出しに戻る。
経営学でも社会学でもなく、文学に立つ私がドラッカーに魅了される理由を
井坂さんのドラッカー論、社会生態学からのアプローチが教えてくれる。
ゆっくり再読したい本です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?