怒ってくれる上司を選ぶ

昨日のnoteに、小島先生の書生を断り、第二電電に入社したと書いた。物書きになりたいのにどうして? 理由は当時専務だった千本倖生氏。上の写真は、1990年6月1日の第二電電創業6周年の幕張プリンスホテルでのパーティ。なんと30年前! このとき私は入社1年2か月、仕事の中心はお茶くみと資料のワープロだった。ちなみに、写真中央が千本専務、右が最初の直属の係長。この二人が私の運命を変えることになる。

千本専務の第一印象はとてつもなく悪い。千本氏を松下政経塾の研修に引っ張り出してくれたのは五百旗頭真先生(当時、神戸大学助教授)である。

松下幸之助氏の意向で、政経塾は常勤講師を置かない。必要な研修テーマを組み、そのテーマに一番ふさわしい講師をその都度お願いする。多くは、幸之助塾長と直接親交もあり理事に名を連ねた著名な先生方。しかし、首相が助言を求めるクラスの名誉教授が講義に来られても、大学卒業したての塾生はだまって拝聴して終わりになってしまうことも多い。わたしたち8期生は、上甲塾頭初年度ということもあって、上甲氏はそこにメスを入れた。

名誉教授ではなく、助教授クラスでこれから一緒に成長していけそうな新進気鋭の学者を各分野の主担当にして講座全体のコーディネートをお願いする。そこで選ばれたのが、経済の伊藤元重先生(当時、東大助教授)、日本政治の蒲島郁夫先生(同、筑波大)、国際政治の五百旗頭真先生(同、神戸大)、アメリカ研修の草野厚先生(同、東工大)。1年目は、3か月ごとに各分野を重点的に学習し、2年目の最初に全員アメリカ研修に出る。

五百旗頭先生が提示したテーマは、日米関係の最重要課題だった貿易摩擦。米、繊維、自動車など時代ごとに変わる貿易摩擦のテーマに沿って、大学教授だけでなく元首相秘書官、新聞記者など、その問題を知り抜いている人を、先生ご自身が直接交渉して講師として連れてこられた。10人以上の講師を招いただろうか。その講義を録音して五百旗頭先生に送った。先生は自動車通勤中にすべて聞き、2週間に一度上京して、講義してくださった。「あの質問はよかった。あの人の話はこういう背景がある。この勉強を発展させるためには、この本を読むといい」など丁寧なコメントに、どれほどの時間をかけてくださったか…… と教師の仕事の神髄を見る思いだった。

五百旗頭先生が、ハイテク摩擦の講師として選んだのが、NTTを飛び出して第二電電を創業した千本氏。フルブライト留学の先輩という関係から依頼したという。当時の第二電電は未上場どころか、最初の事業である長距離電話でさえまだスタートしてないベンチャー企業。超多忙な千本氏の講義は、茅ケ崎の政経塾でなく、東京半蔵門のPHP研究所の会議室で行われた。第二電電の事務所から徒歩5分だったから。

講義の冒頭はたいてい塾生の自己紹介から始まる。同期9人なので、出身校や志望(政治家など)など手身近に言う。通常なら、講師はそれをにこやかに聞きながら、初対面の緊張感がほぐれてくる。ところが、時間ギリギリに走り込んできた千本専務は、途中でさえぎったかと思うと、いきなり罵倒を始めた。

政治家を志望しますと言っておきながら、こんな立派な会議室にゆったり座ってお話拝聴しようだなんて、なにを悠長なこと言っているんだ。同世代のうちの会社の若手は、寝る間も惜しんで走り回っている。そんなことしている間に、世界はどんどん進んでいるんだぞ。(あとから専務に聞いたら、スノビッシュな雰囲気にカチンときたらしい)

一同唖然。いつも、おじいちゃんたちが、君たちお勉強して偉いね、といったモードで礼儀正しくつきあってくださるのに慣れてたのかもしれない。しかし、その後に続いた話は凄かった。

話を聞いたのは、1988年の春だったと思う。日米貿易摩擦が繰り返され、円高でアメリカの自動車産業が衰退、大量の失業を生んだ。日本人の海外旅行客が増え、バブル最盛期はNYのロックフェラーセンターを日系が買収し、石原慎太郎やソニーの盛田会長が唱えるジャパンアズナンバーワンに、自尊心をくすぐられた。日本を目の敵にして、米国議会では日本が貿易に不利になるように301条項が議論されていた。

そんな日本人の驕りにいらつくように、千本氏は吠えた。日本がアメリカを追い越したなんて思ったらとんでもない。来るべき情報化社会に向けて、アメリカは着々と準備を進めている。自分はフルブライトで留学して、フロリダ工科大学で3年半で博士号をとった。死に物狂いで勉強したが、どうしても一人だけ勝てないやつがいた。ほんと天才なんだ。新しい技術は、この突出した一人が創る。平均値で比べたら日本の方が上だとか、まったく意味がない。今の日本で情報化といっていることは、炊飯器にマイコンつけたり、工業社会にちょっと情報技術を足したものに過ぎない。しかし、次にくる本当の情報革命で、社会が根本的に変わる。そのためにアメリカの天才たちは今必死に新しいものを生みだそうとしている。我々はそれに対抗していかなければならないんだ。

今思えば、千本氏はインターネット時代を予測していたのかもしれない。来るべき真の情報革命で、アメリカに互して自由に通信インフラを整備をしていくためには、親方日の丸に甘えた電電公社の独占体制ではどうしようもない。世界をみてきた焦燥感から電電公社を飛び出した千本氏の危機感だけは伝わってきた。

そのすぐあとに、2か月のアメリカ研修に出た。上甲塾頭の「海外武者修行だ」という掛け声とともに、研修先を自己開拓し、2か月後にワシントンDCのホリデーインホテルに集合とだけ言われて放りだされた。貿易摩擦のテーマから研修地を選んだ。米(こめ)を選んだ人はアーカンソーやカリフォルニア、自動車を選んだ人はミシガンなど。私は知的所有権をテーマに選び、ロビーイングを狙ってワシントンDCに向かった。当時、アメリカ議会で長期研修中だった先輩の紹介で、日系の新聞社のワシントン支局に席をいただいて、資料集めやインタビューに回った。

松下電器の研究員だった唐津一先生の紹介状はきいた。(今考えれば、松下のロビー資金の恩恵だったかもしれない)アポを取れば、国防省や国務省の人にも、セキュリティを通って直接会える。わたしのつたない英語でも、What can I help you ?  と真摯に向かいあい、有用なアドバイスをくれた。あのときの英語力で何が聞けたんだろうとも思うが、真剣に求めれば言語の壁を越えて助けてくれる、という自信がついたことは大きかった。

知的所有権の貿易摩擦で当時一番問題になっていたのはパテント、特に種苗法など企業の特許だった。米国議会の方針を誘導するのが、競争力委員会だとつきとめ、その事務所に資料をもらいにいった。競争力委員会の長がヒューレットパッカードのジョン・ヤング会長だったため、報告書はヤングレポートと言われた。ヤングレポートの存在までは、日本でも知ることができたが、現物を現地で手に入れてようと思った。事務所に行って驚いた。日本で話題になっているヤングレポートは第一次のもので、すでに第二次レポートの一部が出ているという。

第二次ヤングレポートを見て、心底たまげた。パテントなど個別の貿易摩擦の案件など書かれていない。新聞で騒ぐようなネタはすでに議論しつくされたのだろう。主眼は、初等教育における理数科教育の強化の提言だった。これがアメリカか。物事の根本から考える。情報革命を起こすには、理数科教育から始めるとは。先の先を見越す。これが千本氏の言っていたアメリカの底力か。

インタビューの合間に、日系の記者たちの仕事も見た。取材に連れて行ってもらったこともある。ロイター配信で今日の委員会予定をチェックし、日本に関係ありそうな場所に行き、記者用のニュースリリースをもらってくる。それを日本語要約して記事として東京にファックスする。301条が最終議決するときには、決定の瞬間を撮るカメラマンに同行して、議会の前で待機した。しかし、そのとき急に違和感を覚えた。しかし超難関の憧れのマスコミで、中でもNYやワシントン支局はエリート中のエリートのはず。勝ち抜いてたどりつく先がこの光景なのか。

書き手は所詮、部外者でしかない。未来が知りたいのなら、あの中に入らなくては…… 

帰国後すぐに千本氏に電話した。「専務のところで修行させてください」

もう新入社員の採用は終わった。だいたい、頭でっかちの塾生なんて役に立たない。人事総務はまだ京セラ依存だから、体質は古い。女の子は制服着てお茶汲みするんだぞ。政経塾まででて、そんなこと我慢できんだろ。

お茶汲みでも何でもします。ミニスカートの制服だって着ます。とにかく専務の下で、勉強したいんです。めげずに何度も電話した。

とうとう千本氏の方が根負けした。採用が終わっていた人事にもかけあってくださったが、引き受けてくれる部署がなかったようで、結局専務の秘書の、そのまた手伝いということで入社が許された。

政経塾の同期にはあきれられた。罵倒の記憶が忘れられないのだろう。あんな失礼なおっさんのとこに行くのかと。たしかに、入社後もよく怒られた。怒鳴り声が聞こえない日はなかった。でも、若き日の傲慢な私を鍛えてくれたのは、あの容赦ない叱責だったとも思う。

だいぶ長くなってしまったので、千本専務の下で勉強したことは次回以降。





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