初めての海外出張は稲盛会長とのTelecom91

念願かなって第二電電に入社して千本氏の下で仕事を始めたものの、扱いは一人の女子新入社員。短大卒の秘書頭の先輩から、事細かに指導を受けた。朝当番(全員の机を拭きポットを用意)、会議や3時には部署全員にお茶を入れる。インスタントコーヒーのブラック、ミルク入り、ミルク砂糖入り、日本茶など部署の人の好みとコップを覚える。個人のコップはあとで回収して洗う。人事や経理に伝票届けたり、木曜日の昼休みは総務に行って文房具などの払い出し。あとは電話を受けて、伝言メモを書く。隙間の時間は先輩から依頼されたワープロ打ち。1日中社内を走り回ってた。

そんな一般職OLの毎日が、一つの仕事を境に180度変わった。

当時の世界の通信業界のトレンドは民営化。大成功を収めた第二電電の稲盛和夫会長にTelecom91から基調講演の招待があった。4年に1度行われるTelecomは、電気通信業界にとってのオリンピック、業界最大のフォーラムと見本市だ。国連下部機関のITU(International Telecommunication Union)の本部があるジュネーブで行わるが、この1週間はジュネーブのホテルが10倍にはね上がる。1991年に行われたからTelecom91。

今でこそ、通信やっている人はトレンディなグローバル派が多いかもしれないが、当時の第二電電は違う。電話の事業免許は国内と国際に完全に分かれていたので、国際派はNTTでなくKDD、または同時期に創業したIJなど国際電話を扱う新会社を希望した。だから、第二電電の社内で英語ができる人はほとんどいない。

唯一の例外が、フルブライトで留学した千本専務と、専務が引き抜いた元NTTの留学組。フルブライト合格後、千本専務が退社を申し出たところ、真藤会長が特別休職扱いにしてくれた。(真藤会長はリクルート事件で退陣したが、人物だったって)千本氏が留学から帰ると、NTTでも留学制度ができ、その制度を利用したT部長やF次長がMBAを取得した。MBA後に外資系に転職した2人を、千本氏は第二電電創業期に誘った。二人は経営企画部、営業企画部を担っていく。

話を戻そう。社内で過去にTelecomに参加した経験があるのは千本専務だけ。ITUは通信の国際規格を決める部会などがあって、専務はNTT技術部長時代にそれに参加していたからである。しかし、ほかの人にとっては、Telecomもジュネーブも初体験である。

稲盛会長の英語基調講演を成功するために、社内で一大プロジェクトが結成された。窓口は経営企画部、F次長の下で、S係長が実質的な事務局長役を担った。私はその下で、英語が得意でないS係長のサポートとして英語原稿のワープロ打ちなどをしていた。

大学時代からつきあっていた同級生と4月に結婚して、のんきに新婚旅行から帰ってくると、衝撃のニュースが待っていた。S係長のお父様が倒れて、家業を継ぐために退社するという。S係長はとても有能な人だったので、穴埋めできる人はそうそういない。しかも、9月のテレコムまであと数か月しかない。結局、今までの事情をわかっていて、英語もちょっとはできそうな私がなんとかすることになった。入社2年目のお茶汲み女子からのいきなりの抜擢。しかも、新婚早々に3週間もの海外出張に出ることになる。

大丈夫、わたし? まあ、やるだけ、やってみるしかないわね。政経塾時代の無謀な研修の連続を思い浮かべながら(100キロ歩行や2か月の海外武者修行)覚悟を決めた。

当時の第二電電で、海外出張はご褒美ものだった。会長の晴れ姿をサポートするという名目で、社長、総務人事部長、会長秘書、広報課長、ネットワーク事業部長などが同行することになった。京セラ本社にも会長秘書がいるし、通信事業部の担当者もくる。それらを統括する事務局を引き受けたのが経営企画部なのだが、千本専務、F次長の下は、私とアシスタントの同期1名のみ。猛烈に忙しくなった。この頃の記憶は断片的だ。

新電電で何かことをするには、郵政省に仁義を切らないと、あとが怖い。稲盛会長の原稿も、もちろん郵政省のチェックを受けた。それを英訳して事務局に送ったところ、司会担当の教授からコメントが返ってきた。第二電電の成功を浮き立たせるには、郵政省やNTTの独占の弊害をもっと強く打ち出すべきだと。しかし、郵政次官もNTT会長も講演者リストに載っている。ジュネーブに行く以上、稲盛会長の講演は必ず聞きに来る。郵政の窓口となる企画部長は、これ以上の過激な表現は…… と渋る。私たちは何度も原稿を書き直し、会長に見せた。最終的には会長が決断した。「あたりさわりのないことだけ言って、海外まで言って恥かきたくない。いうべきことを言おう。」リーダーに直接仕える醍醐味は、こういう瞬間を目の当たりにすることにある。

会長の講演準備以外にも山のような仕事があった。千本専務は部会でコーディネーターを務めるので、そちらの準備もあるが、なんといっても大変だったのは、10名以上の団体になってしまったこと。フォーラムの申し込みはもちろんのこと、飛行機やホテルの手配も。インターネットがない時代だからすべてファックス。しかも、せまいジュネーブにオリンピック並みに人が押し寄せるのだから、ホテルも会議室も高騰していて、すべてが高額でいちいち確認して稟議が必要になる。めったにない海外出張なので、ジュネーブだけでなく、会期後にパリやロンドンにも行きたいから、フランステレコムやブリティッシュテレコムの訪問もセットしてほしい。海外慣れしてない部長や役員とその秘書から要望や質問が押し寄せられパニックだった。

激動の数か月をしのぎ、なんとかジュネーブに到着。通信のオリンピックというだけあって1週間のイベントの数がはんぱない。基調講演に始まって各種の部会。見本市の方は世界各国の通信やITメーカーのブースが並ぶ。日本からは富士通、NEC、沖、日立の電電4社を始め、コンピューターや家電メーカーまで。各社がホストとなるランチやディナーパーティも連日繰り広げられ、登壇者たちには招待状が届く。稲盛会長と千本専務のパーティスケジュールの調整だけでも大変。第二電電と京セラの2人の秘書が同行したが、前者は英語ができず、後者は通信がわからない。結局私が専務に直接確認する。

ジュネーブでの移動も大変だった。タクシーなんて拾えないし、バスはフランス語しか通じない。稲盛会長のためになんとかリムジンを1台確保した。しかし5人乗り。助手席には英語ができる京セラの秘書、会長をみなでお見送りしようとすると、「美紀ちゃんも来なさい」と専務の声、すがるようにF次長を見たら、にっこりうなずき「頑張って、よろしく」とささやく。後部座席に会長と専務に挟まれて座ることになった。会期中の1週間、ずっとこれが続いた。次長は今頃のんびり見本市めぐりをしているのだろう。

会長は英語スピーチに緊張して、準備に余念がない。ホテルのスイートで英語スピーチ練習。英文秘書がつきっきりだが、うまく発音できない箇所があると原稿の修正。赤線で修正すると読みにくいので、打ち直して原稿作成するのは私の仕事。あとで事務局に走ってプリントアウトさせてもらわないと。

会長は片時もぼーっとしてない。合間にも、次々と質問攻めにあう。今日の日本人の登壇者は誰だった? NECの〇〇会長は13時からです。富士通は明日ですね。もう、京セラのブースは行ったか? 誰が来てた? 会長に聞かれそうな項目を洗い出し、必要な書類を縮小コピーして重要なものを選んでノートに切り貼りした。手に豆ができるほどアタッシュケースは重くなった。

国際慣れしている千本専務のサポートは、別の意味でむずかしい。ITU活動を通じての国際人脈があるため、知人たちとの挨拶やミーティングに走り回っている。午後に部会のコーディネーターをするとわかっていても、原稿なんか見向きもしない。事前に原稿チェックする時間がないと壇上で初めてみたりするので、準備するこちらは緊張する。

「午前中、フランステレコムの社長とドイツテレコムの会長が出る部会の時間がぶつかってる。部会の前に言及した方がいいかも。俺はドイツの方に出るから、美紀ちゃんはフランスの方よろしく。」と去っていく。一人で心細いなんていってられない。慣れない英語スピーチのメモを必死でとる。

終わって専務を捕まえ、メモを差し出そうとすると、「それより、冒頭おもしろいジョークないか、英語スピーチはジョークが大事なんだ。考えといて」とか言う。今なら簡単にググれるが、インターネットどころかガラケーすらなかった時代、どうしろというのだ。

専務の無理難題は続く。郵政次官の発表の前に、お付きの若い官僚がまごまごしていると、すかさず寄って行って「うちの若い子使ってください」言い置き、自分は次官と一緒に舞台の方へ行ってしまう。私は人身御供か? 

仕方ないので、若手官僚と一緒に、後方のOAブースに行く。OAブースのテクニシャンが、いきなりフランス語でまくしたてる。エリート官僚は固まってる。英語で質問を返したが、テクニシャンは肩をすくめる。英語が通じない! パワポがない時代、ワープロを写真に撮ってスライドにして、順番を考えて円盤にスライドにセットしなければならない。スライドの機械が日本と違う。成田で買い込んだフランス語日常会話の本を取り出しながら、身振り手振りでなんとかテクニシャンとコミュニケーションをとる。

舞台では、次官が演台に進む。間に合った、セーフ。この次官が定年後に、第二電電の社長になるなど、当時の私は知るはずもない。

こんなバタバタの連続でなんとか1週間を乗り切った。最後の晩に、会長が打ち上げとして中華料理を招待してくださるという。専務に同行してどっかのパーティに行く予定があることを告げると「あんたが来なくてどうするんだ。一番頑張ったのに。」と言ってくださった。冒頭の写真はその夕食会のときのもの。稲盛会長の右が会長秘書、立っているのは広報のK課長。

なんとも大変な仕事だったが、この海外出張をやり切ったことで、社内での立ち位置が完全に変わった。専務の海外秘書として世界を飛び回ることになる。続きはまた明日。





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