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点がつながるー耳庵は松永安左ェ門

昨日の初点式で私の前に置かれた茶碗は薄鼠色の薄手の刷毛目。すかさず点前座の先生が「三島は、刷毛目のようですが象嵌のように白を削り出します。箱書きは松永耳庵」

思わず「耳庵って松永安左ェ門ですね」と答える。

「そう、松永安左ェ門って茶人としては破天荒なんだけど、ものすごく面白い人だから好きなんだよね。去年の茶会でも、耳庵箱書きの道具出したんだよ」

この社中で初めて出させてもらった昨夏の茶会、会記を見て驚いたことを思い出す。蟹の蓋置の箱書きが、たしかに松永耳庵だった。なぜここで松永耳庵? 茶人というより経済人なのに…… そう思って控室の本棚を見ると、松永安左ェ門の伝記があった。この先生も好きなんだ。

この先生も…… だって、あの先生も松永が大好きだったから。

伝記作家の小島直記先生。若い頃に芥川賞次点。そのときの受賞作が石原慎太郎だったことに憤慨して、純文学に見切りをつけて独自の伝記文学を切り拓いた人。フランス文学が好きだったけど、母のたっての願いで東大経済学部に進んだことが生きた。

松下政経塾の2年間に毎月講義を受け、卒業してからも何年か読書会でご指導を受けた。私は政経塾の8期生、創設期のプログラムの見直しで、上甲晃塾頭が人物研究の柱として教えを乞うたの小島先生だった。当時ちょうど小島先生の全集が刊行開始されるタイミングということもあり、松下電器の山下相談役が小島全集を私たち1年生にプレゼントしてくれることになった。毎月刊行される全集が寮に届く。それについての感想文が、文章指導の課題だった。課題はまず、全集の担当編集者だった島谷康彦氏に送り、島谷先生が文章添削してくれる。その1週間後に小島先生の講義。小島先生の著作は政財界の伝記が多いので、必然的に参考文献も多く、読んでも読んでも間に合わない。

小島先生の講義は、三島の小島直記伝記文学館で行われた。バブルの頃、駿河銀行が文化事業の一環で、駿河台に伝記文学館を建ててくれるというので、小島先生は粋に感じて蔵書を全部寄付してしまったものの、本がないと書けないことに気づき、伝記文学館のすぐ近くに家を買って引っ越した。本当に豪快な人だった。講義の後に必ず、三島駅前の「桜屋」で鰻をご馳走してくださった。厳しい講義のご褒美に、特上のうな重と日本酒。政経塾の講義料では足が出ただろうに、先生は貧乏学生ががっつく姿をニコニコして見守ってくださっていた。

多くの政財界の人物伝を書いた小島先生が一番好きだったのが、松永安左ェ門。まとまった伝記だけでも5回書いている。若い破天荒な頃が中心の『まかり通る』、福沢諭吉や娘婿桃介とのやりとりがおもしろい『福沢山脈』、全集に収録された『松永安左ェ門の生涯』は日本の電力の基盤を作った人として経済状況の資料も含めてすごいボリューム、晩年に書いた『晩節の光景』は私利を越えて事業を起こした人物の本質をコンパクトにまとめている。これ以外にも、エッセイや講義録にも多数登場する。何度書いても書ききれない魅力がある、そんな人物に出会えたことを、伝記作家として幸せだとおっしゃっていた。

若い頃、漠然と「もの書き」になりたいと思っていた私は、本物の作家に直接指導してもらえるチャンスとばかりに、全力で立ち向かった。原稿用紙5枚を書くのに、毎月必死だった。小島先生をうならせる文章を書きたい。最後の添削とき、島谷先生から及第点をもらった。「もう直すところはありません。ここまで読み込んで書いてもらえる小島直記は幸せです」

卒塾して、小島先生のところで書生として住み込むことも考えた。先生も歓迎してくれるという。しかし、最後の最後に決断できず、社会に出た。「どう書くか」は学んだ。次の問題は「何を書くか」、それには広く社会経験を積み、自分のテーマを探さなくてはならない。お母さまの望みで進んだ東大経済が、小島先生の経済人の伝記を書くベースになったように、私も、遠回りしてもいいから、私の強みを生かす、私にしか書けないものを探したい。

昨日、お茶の松村先生に、『まかり通る』の話をしたら、「おもしろいよね。でも、茶人の松永を書いた本もおもしろいよ」と教えてくださった。『まかり通る』の話をしたのは、30年ぶりかも。好きなものが一緒の人は、どこかで共通点があるのかもしれない。松村先生との出会いは、必然だったのだろうか……

師が増える。点がつながる。学びが深まる。今年は多忙を言い訳にせず、お茶のお稽古にも真面目に通おう。


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