自分のために言葉を紡ぐことが出来ない世間と私。
表現への愛がゆえに
私は書くことが怖い
なぜなら、表現することが大好きだから。
大好きだからこそ汚したくない
現代の表現は視聴者、視聴率を求めるけども。
私は自分のために言葉を紡ぐと決めるまで長い間葛藤した。
恐れを抱く理由は、対自分と対世間どちらにも存在する。
完璧を求めすぎる私は
美しい人生、日々の感動を洗練されていない生煮えの言葉で紡ぐことに気持ち悪さを感じる。
自分の稚拙な表現で、尊敬するクリエイティブや感動した体験を汚したくないとさえ思う。だから今じゃないといつも思う。今書いたら、自分が納得いく完璧な表現は出来ない。ちっぽけな自分を受け入れる余裕もなかった。それでも今書かないと今ここを生きる私を肯定出来ないと想い、とめどなく書いている。
昔から自分のなかで言葉にすることは大好きだったが、どうしても表現を外に出す事に相当なストレスを感じていた。勝手に消費されコンテンツ化したものが、誰かに評価されるこの世界もおかしく感じる。
世間の風潮にのまれて、世間でいう”何者か”になるまで表現する事をお預け状態に。自分の声が最大値で届きやすい”いつか”を作ってしまった。いつの間にか文章は誰かにとって消費されるために生み出す、苦しい作業になった。
赴くままに、好きに生きている人の大多数はこの恐れから抜け出している。それを乗り越えて音楽家も芸術家も作家もそのバランスの中で生み出し、生きているのである。
対価を求める、消費者の圧力
いつしか書くことは「お金」のために、誰かから「評価」されるために。表現は共感を生み、お金となり、地位と名誉に変換される。だからこそ、私にとって表現の目的がすり替わった。
自分への期待値が高いとその逆をいく世間の無関心さに心が荒む。表現=誰かから求められるものでなければならない。これに苦しんだ。「だから今じゃない」と。
私たちはなんのために生み出すのか?
「クリエイティブは届かないと意味がない。」
「プロダクトは使われないと存在する必要がない。」
なんのために人は生み出し、表現するのか?
「社会がより豊かになるため」「誰かの負を解消するため」もちろん重要だ。でもいつしかそれが自分のクリエイティビティに制限をかけている事さへ忘れてしまう。
プロダクトもアイデアもまずは今の自分を幸せにするために生み出すものと決めてから、一気に心が軽くなった。
みんな思っているほど無関心であるなら、私は自由である。つまり自分が作り上げた虚像に私は苦しまれてきた。
みんな好きだよね”◯◯の理由”
表現が更に自由になった今インセンティブが生まれ表現は対価に変わった。
「自分が大手企業を辞めて◯◯にジョインした理由」
「5分でわかる、月収10万円複業で稼ぐ方法」
人生全てがコンテンツになる今、コンテンツにするために人生を選択して生きているようだ。マウンティングのようで、誰かを操作するような表現を私はしたくない。風潮として求められているとしても、好まない。
悩みや失敗、どうでもいいようで美しい日常も全ては価値となる。無かった事にしないように表現に落とす者も、心にしまう者もいていい。
私を許すために言葉を紡ごう
今の自分で書くことを許せなかった。
書くたびに涙が溢れる。
不思議な現象に自分が一番驚く。
書いていいんだと自分の気持ちが柔らかくなる。
自分を許すために書けている今が愛おしい。
本来私にとって言葉は自由に表現するためであった。それなのに、その目的を私が許せなかった。今まではこれを書いたら受け手はどう思うのか?反感を買うのか。気にしても仕方ない事に途方もなく動きが止まる。その葛藤を飛び越えて、書けている今はすごく不思議な感覚だ。
目的は自由だ。誰かにこの凄さを素晴らしさを、何者かである事を理解してもらうための「表現」。有料化してビジネス目的で行う「記事」。それが悪いことでもなく本人が納得していればそれでいい。
それでも言葉で役に立ちたい
沢山の記事や文章に触れてきた。生きている意味を感じない時に私を救ってくれたのは言葉や表現たちだった。
小学生の頃内弁慶で女子の世界でうまく立ち回れなくて図書館に隠れて休み時間を過ごした日々。
親の理想や期待に応えられず申し訳ないと自尊心を失っていた高校時代。
失恋してこれからどう生きるか立ち直り方を教えてくれたのも偶然出会う誰かの表現だった。
自分が没頭することで表現する
私は基本興味範囲が広く、飽きやすい人間だけど、それでも常に頭の中を占めるものはなにか考えてみた。
・内省する事(=ジャーナリング)
・パートナーシップに関する記事や文献を読むこと(PDCA回すタイプ)
・精神世界やホロスコープ(母親が心理カウンセラーなのも影響大)
・人と深く向き合うこと(キャリアそのまま)
・子育てや教育、学びについて(英才教育で育った体験から)
自分の内と向き合い続ける事は幼少期から好きで没頭してしまう。だから人と向き合い相互理解をすることも全く苦ではない。
諦めることから始まる
人は何者かになろうとすることを辞めた時に、「私」に還るのだろう。
自分と世間への期待を手放すこと。
私は今の私で表現する事に今とても居心地が良い。
自分を表現し、意図もなく世界の誰かの心の温度を1度でも上げられたことが幸せだった。
今Noteを始める人が外的要因で突き動かされて苦しんでいるのであればまずは感覚のまま吐き出して紡ごう。
その覚悟に人は無意識に突き動かされる。
心の中を旅して紡ぐ言葉は美しいから。
”今の自分そのまんま”を許したときに「何者」が私の中に生まれるのだから。