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キハチ!

故郷の生家の向かいに岡本喜八監督の生家があったということで彼のエッセイを読んでみた。
面白い。リズム感があり洒脱で、諧謔とユーモアがあってエッセイストとしても一流だと思う。
生前の父に聞いてみたことがあったが、製函屋をしていたとのこと。あれ?靴屋さんではなかったのか、と訝しく思っていたが調べるうちにわかってきた。
代々大工の家系であり、祖父は宮大工の棟梁だったが、父が弁当の折箱製造を始めた。

「マジメとフマジメの間」(岡本喜八 ちくま文庫)にはこう書いている。

「私の生家は裏通りに面した、元に奥のインキョがあったところをソバ屋さんに貸し、表通りに面した店は、元々クツ屋さんに貸してあった」

向かいの家が本屋でよく立ち読みをしたことも書いてある。ある時「赤穂浪士銘々伝」を読んでいたら岡本喜八郎(彼の本名)という人物が出てきたので自分と同じ名前のサムライがいた!と喜んだら四十七士ではなく、さっさと逃げた奴だと知り、大いに失望したらしい。喜八としたのもその時の衝撃からかもしれない。

岡本家を借りて靴屋を始めた判澤氏は日清戦争で従軍した際(大本営は広島に設営され、明治天皇も66人の従者と御同座され、7か月間首都になった)に上官から軍靴を作れ、と命令されて帰郷してから靴屋を始めた。米子初の靴屋であり、学生靴を販売すると店の前に長蛇の列ができたという。

喜八は自分のことを、へそ曲がりのガンコで照れ屋、無口だったと言っている。この辺、死んだわが親父に似ている。

「私の父は、私が『肉弾』という映画を作り終えた途端に、それを待っていたようにして死んだ。ささやかな完成パーティーをやる為に数十人のスタッフと一緒に箱根へ行こうという朝に電報が来て、私だけそのままヒコーキに乗って山陰の郷里に帰り、臨終までの数時間、やせさらばえた手を握ってやる事ができた。」

若き写真を見ると色つき眼鏡にバンダナ、黒服というキハチスタイル。かなりカッコいい。まるでジョニーディップを彷彿させるようだ。地元の高校を卒業後、明治大学に進学し、まだ無名の時の三船敏郎と下宿で同居したこともあった。
墓は終の住処、川崎市と米子の西念寺にあるとは後に知り、墓参したかったとホゾを噛んだ。

恥ずかしながら今まで作品は「大誘拐」しか観ていない。
岡本喜八を敬愛する庵野秀明監督が「シン・ゴジラ」で喜八の写真を演出させたのはファンの間では有名な話。
この偉大な監督の映画をこれから時間を作って少しずつ観てみようと思う。

「私の生まれ育った米子は伯耆大山の山裾にある。ラジオ体操が終わって、朝な朝な眺めた真東に聳えたつ伯耆大山が、富士に似たその山容の影をすっぽりとまだ眠っている米子の町一杯に落とした一枚の景色が未だに心に残っている。
米子は城のない城下町である。だが、今でも昔、四層五層の大天守があったという石垣の上に立って東を望むと、たちどころに68歳から8歳の小学生に戻るのである。」(「伯耆大山 私の好きな場所」)

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