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中井祐樹という男

「高校時代にレスリングを学び、北海道大学柔道部で高専柔道の流れを汲む七帝柔道を学ぶ。本人によると最初は大学正門前にあった極真空手高木薫道場に入るつもりだったが、北大柔道部を見学に行って、そのあまりの寝技の多さとテクニックに惹きこまれ入部したという。」
(ウィキペディアから引用)

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」「七帝柔道記」などの作家、増田俊也は当時北大の柔道部員だった。中井が見学に来ていたときに、こいつを絶対入部させよう、とわざと中井の目の前で後輩部員相手に横三角、前三角、後ろ三角、腕絡みなどのあらゆる関節技や絞め技をデモンストレーションした。

「中井はベンチか尻が半分落ちるほど前のめりになり、興奮しながらその技の数々に魅入っていた。」

中井は北大柔道部を選んだ。

「毎年7月に開催される七帝戦で、4年時に無敵の京大の11連覇を阻止し、団体優勝を果たした。中井は、すぐに退学届けを提出し、プロ修斗(当時の名称はプロシューティング)に参戦するために上京し、スーパータイガージム横浜へ入門した。」

そしてパーリトゥードジャパンオープン95。一回戦の相手はオランダ極真空手出身ジェラルドゴルドー。中井は恋人の英子(後の妻)に「生きて帰られないかもしれない。だから観に来て欲しい」と武道館での試合に誘った。ゴルドーは中井に執拗にサミングをし、親指で目をえぐった。これによって中井は右眼を失明。しかしヒールホールドで一本勝ち。右眼から出血しつつも、準決勝、決勝と勝ち上がったがヒクソンにスリーパーホールドで一本負け。中井は試合中、一切レフリーに失明のことをアピールしなかった。それはこれから総合格闘技が危険なものとして全国に認知されるのを危惧したからだ。中井は失明によってプロライセンスを剥奪され、ブラジリアン柔術に転向し、現在日本ブラジリアン柔術連盟会長として多くの門弟に慕われている。一方でゴルドーは事実上この試合で選手生命を断たれた。

増田俊也は言う。

「中井が平成元年の四月、北大道場を訪れず極真空手に入門していたら、いまの中井はなかったであろう。極真からシューティングに進んでいたとしてもゴルドーに勝つことはできなかったはずだ。
あの日、中井祐樹という稀代の勝負師が、たまたま北大道場を訪れ、たまたま入部した。それが現在の総合格闘技シーンの巨大な潮流を作ったのは間違いない。奇跡以外のなにものでもないではないか。この奇跡を、私が書かないで、いったい誰が書いてくれるというのか。」

あるとき、増田俊也に極真から独立した大道塾率いる東孝がこう言う。中井祐樹という男がよくわかるではないか。

「『俺さ、ときどき考えるんだよね。もし中井があの試合で怪我してなかったら、今ごろブラジリアン柔術じゃなくて打撃ありの総合格闘技を広めようとしてたわけじゃない。そうしたら俺の大道塾の大きなライバルになってだはずだよなって。もちろん中井は裸の総合格闘技だし、うちは道衣ありだから少し違うけど、それでもあいつのことだ、すごいムーブメントを起こしてたと思う、(略)
でも中井だったらなんでも許せるんだ。もし中井が大道塾のライバルになっていたとしても全部許せる。俺は中井祐樹という男が大好きだ』
東は私(増田俊也)が泣いているのに気付いてなかった。」

中井は決して強がったり、道場生に偉そうな口を聞いたことがない。いつも謙虚だと皆が口を揃えて言う。ある日道場で脱ぎ散らかした道場生の靴を中井が黙って整理しているのを目撃して感激した、という。

評論家、エッセイストの勢古浩爾が「定年後に読む100冊」の一冊にこの本を取り上げ、その中にこういう記述がある。

「増田俊也は自著で、二人の同志だった人に献辞を捧げたあと、このように書いている。『そしてスポーツや仕事、家族、仲間、なにかを信じて懸命に生きるすべての人に捧げます。』
(VTJ前夜の中井祐樹「イーストプレス」)
ふつうならひとつの形式的な文章として読み飛ばしてもいい部分である。だか、わたしの心はこういう、なにげない言葉にとまる。これはただの形式的な文章ではない。『なにかを信じて懸命に生きるすべての人』という言葉には増田俊也の本心があらわれている。ありふれたといえばありふれた言葉である。しかし、増田俊也はそういう人たちがほんとうに好きなのだ。」

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