当館収蔵の作家紹介 vol.11 児島善三郎(こじま ぜんざぶろう)
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当館には近代の日本美術を代表する作品を数多く収蔵しています。展覧会を通じて作品を見ていただくことはできますが、それがどんな作家、アーティストによって生み出されたものなのか。またその背景には何があったのか。それらを知ると、いま皆さんが対峙している作品もまた違った感想をもって観ていただけるかもしれません。
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この連載で今回取り上げるのは児島 善三郎。明治時代の福岡に生まれ、すでに10代の頃から油彩をはじめとする西洋絵画に魅せられ、勉強を始めたといわれています。1925年からはパリへ渡りヨーロッパの古典絵画にも親しみ画業三昧の生活を送りましたが、帰国後には太平洋戦争を体験しています。生涯独学を通し児島善三郎の作品と言われる境地を切り開くに至ったのは、創作活動をできる素晴らしさを身に沁みて感じていたからではないでしょうか。晩年には『週間朝日』において女優の有馬稲子を描き、表紙を飾ったこともあります。まさに当代きっての人気大女優と名をなした画家の組み合わせだったに違いありません。
児島氏の作品は、2024年11月23日までの展覧会『その絵からどんな音が聞こえますか?』でご覧いただけます。
児島善三郎 (Zenzaburo Kojima) 1893-1962
福岡県福岡市中島町の紙問屋の生まれ。中学生の時に、のちにやはり画家となる中村研一らと絵画同好会「パレット会」を作り油彩画制作に励みました。1912年に長崎医学専門学校薬学科(現 長崎大学薬学部)に入学するも、画家になるべく、翌年父親の反対を押し切って上京。美術学校を受験するも失敗し以後は師につくことはありませんでした。そうこうしているうちに結核を患い郷里の福岡に戻り5年間もの間療養せざるを得なくなりました。回復後は、画家になることを諦めきれず再び上京。1921年に二科展にて初入選を果たします。そして翌年には代々木にアトリエを構え絵画制作に打ち込みます。
1925年に欧州へ遊学。流行に流されず基礎的な人物表現を修練しました。帰国後は“日本人の油絵”を描くことを目標に、代々木のアトリエに日本庭園を築きます。日本回帰の太い輪郭線で表現した作品を二科展に出品するも酷評を受け、二科会では自由に表現できないと察し二科会を退会、里見勝蔵や林武らと、二科会の西洋模倣から独立しようという意味で独立美術協会を結成しました。1936年国分寺に転居。この国分寺時代が一番画家にとっての黄金期とされていて、日本の四季を描き色彩もより明るくなり形態を単純化した作風が確立しました。戦後を迎え、独立美術展など様々な展覧会が復活、読売アンデパンダン展など新しい展覧会も始まり、精力的に活動した時期でした。
1946年10月と、翌年の5月から10月まで北海道に滞在。北海道の風景に魅せられ、滞在先の近くの札幌にある中島公園をよく描きました。中島公園のヨーロッパのような風景を大変気に入っていたそうです。《池畔の夏(札幌中島公園)》はこの時描かれた作品です。本作品からは、昼下がりのボートをこぐ音や人々の賑わいが聞こえてきそうですね。
1951年に杉並区の上井草に移転。ここから亡くなるまでの1962年までが荻窪時代とよばれます。独立美術協会設立時に掲げた流行に流されない“日本人の油絵”を描くことを再度目標に掲げ、1952年頃より結核が再発し闘病しながらも制作をつづけました。
[企画・編集/ヴァーティカル 文/三木美術館]