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「こんにちは、三木美術館です」 vol.3  美樹工業(株)創設者、三木茂克氏の美術館創設までのストーリー

姫路の文化を発信する三木美術館からお届けするインタビュー企画。第二弾の今回は、現館長であり三木美術館の創設者、三木茂克氏の御息女三木立子さんの登場です。茂克氏が多くの美術作品を収集したきっかけや作品とのエピソード、そして美術館を設立に至る裏話を2回に分けてお届けします。前編は家族の目から見た美術愛好家としての茂克氏の姿を紹介します。

会社や社員のことをいちばんに考えていたザ・仕事人

―三木館長から見て、父親としての茂克氏はどんな人物だったのでしょう。
仕事一筋の人でしたね。子どもの頃から、大工だった祖父の手伝いをしながら修行を重ね、21歳のときに建築請負業として姫路市に三木組を創業しました。その後、実直な仕事ぶりが認められ、大阪ガス株式会社の指定工事会社に認定。1962年(昭和37)に美樹建設株式会社(現美樹工業株式会社)を設立しました。

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お気に入りの美術品とともにくつろぐ三木茂克氏

当時は高度経済成長期の真っただ中。多くの家庭がそうであったように、家のことは母親が守り、父親は仕事にまい進。とくに経営者という立場だった父親は仕事が第一で、家にいる時間は少なかったですね。ゴルフ場を作ったり、戸建て住宅の販売・施工会社(現・ハイム山陽株式会社)やタクシー会社などを興したりと、とにかく仕事が大好きで事業を拡大していっていたので、めちゃくちゃ働いていたんだと思います。

私が小学校の時はあまり会っていませんでした。中学生の頃も父は口数が少なくて、テレビのニュースか野球中継を観ながら新聞ばかりを読んでいました。家にいても余計なことは言わず、厳しい父で「社員を食わせていかねば」と口癖のように言っていたのを覚えています。社員のため、家族のため、社会のためにと一生懸命だったのだと思います。

家族からみた美術愛好家としての創設者・三木茂克


―茂克氏と美術品との出会いについて話を聞いたことはありますか?
祖父がもともと掛け軸などが好きで季節ごとに掛け替えたりしていたのが影響しているかもしれません。また高校生のときにお茶を習っていたと聞いております。おそらく、その頃から茶碗など焼き物に興味があったのでしょう。私の記憶の中にも、お茶を飲んだあとに、茶碗を両手に持ち、じっくりと眺めている父の姿があります。ぐるりといろんな方向から眺め、その風合いを確かめたり、新たな発見を楽しんでいるようにも見えました。

備前焼の作家、隠﨑隆一氏との交流

また仕事の合間を縫ってさまざまな地方の窯元を訪れ、作り手と話しをし、気に入ったものを購入しては自宅に持ち帰っていましたね。気が付くと自宅にどんどん棚が増えて、さらにはひと部屋がいつのまにか収納庫のようになって家族は半分呆れ顔でした。そして父に「ここに、あの壺を出しておけ」などと言われ、中学の私と妹の姉妹で父が収集した陶磁器を並べるのが仕事みたいになっていました。

美術品に呼ばれるかのように窯を訪れ作り手の話しを聞くのが大好き

―収集する美術品に何かこだわりはあったのでしょうか。
近現代の陶磁器を好んでいたようです。なかでも、伝統的な焼き物でありながら、それぞれに工夫を凝らし、独創的な作品を生み出す作家さんには一目置いていました。例えば、備前焼の隠﨑隆一先生は土の再生利用を試みるなど、伝統に甘んじることなく常に創意工夫を絶やさない姿勢で創作されていますが、その生み出す作品の力強いフォルムを父はとても気に入っていました。

隠﨑氏には作品作りについて色々教えていただいたようです

隠﨑先生は父より20歳くらい下なのですが、とても尊敬していて話をするのを楽しみにしていました。父は常々、地域に貢献したいと言っていましたが先生も同じように文化的な地域貢献を実践されている方。そうした同じ志を持っているというところでも惹かれるところがあったようです。

先生によると父は突然、窯を訪れることもしばしばだったとか。しかもそれが「いいものが出来た!」と思ったタイミング。父がまるでその瞬間を察知していたかのように現れたことにとても驚かれたとのこと。もしかしたら、作品のほうから父を呼んだのかもしれませんね。父と美術品はお互いに好いて、好かれてという間柄だったのでしょう。                                         
                         [ 文・堀朋子]




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