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手は口ほどにものを言う

昔、なにかの小説で「手のひらの状態はその人の心理状態を表している」という一文を見たことがある。手相の話ではない。どちらかといえばグー、チョキ、パー、自分の意思で変えられる手の形の話だ。

パーは、「一番心を開いている状態」らしい。なんとなくイメージだけで、その捉え方に納得できる。たしかに手がこちら側に開いているという状態は、受け取り側もなんとなく安心する。「手を上げろ!」と言われた人は、グーはしない。それに「こんにちは」と「さようなら」でグーやチョキを振り回す人もこの日本では見たことがない。

となると、わたしたちはこれまでの人生で、社会的文脈の中で「ある感覚」を身につけてきたことがわかる。手をモジモジさせるのは後ろめたさや恥ずかしさの表れで、拳を震えさせるのは怒りや悲しみで、といったような認識を子供の頃から自然と脳にインプットしてきた。

だからわたしたちは自分の意思でグーやパー、中指を立てることができるし、その記号の意味を想像することもできる。つまりある感覚とは、手の動きから想いを伝える・認識するための手話を理解できる感覚ということで、それを世間一般の手話とは別に、わたしたちは自然的に身につけてきたのだ。

この当たり前すぎて気にもとめられていないだろう手話は、言葉下手なひとのためにこそあるものだと思う。そういえば、高校生の頃「プレゼンは身振りを大きく」なんて言われたことがあった。あれも、言葉下手を隠すためのカモフラージュとして「手」は有効なコミュニケーション方法だと先生は言っていたのだろう。

手を使ったコミュニケーションを使いたいのは、尽くしきれない言葉をかけたい恋人同士に限らなくてもいい。家族とか、大切な友人、仲間、つい最近出会った人、ナンパされた男、クラブで肩を抱いた美女にだって使ったっていい。グー、チョキ、パー、中指……は、できれば使いたくないけど。

そしてもしも、「好意」を伝えるのだったら。口下手な人が「あなたはわたしにとって大切」「守ってあげたい」「ずっと側にいる」なんて想いをとても言葉にできないと思ったなら、いっそのこと包んでやったらどうだろう?直接触れた方が、言葉にならなかったことが伝わるのではないだろうか。

冒頭で「パーは一番心を開いている状態らしい」なんて言ったけれど、パーなんかではなくいっそのこと、包んでみたら。

この手は、ただ歳とともに大きくなってきたんじゃない。ただ歳とともに相を重ねていったんじゃない。大切なひとの手を、包むことができる。この手はきっと、そのためにある。

***

そんなことを考えたのは、わたしが実家を出てからもう何度目にもなる「別れ」がやってきたのがきっかけだった。東京に向かう新幹線を待つ駅の改札で「元気でね」と、母がわたしの手を握った。考えすぎかもしれないけれど、まだ言いたいことがあるような顔だったように思う。わたしもまた、「またね」とだけ言って、手を握り返した。もちろん「健康には気をつけてね」とか「仕事頑張りすぎないでね」とか言いたいことはたくさんあったのだけど、とにかくわたしはそこまで器用じゃなかった。

だけど、こうして今でもパソコンの画面にカタカタと文字を打っている手は、母に握ってもらった手なんだと思い返すことができる。手の感触なんて正直もう覚えていないけど、握ってもらえたと思うだけで少しあったかく感じる。母はあの手で今日も台所の野菜を切ったりしてるのだろうか、わたしを思い出したりするのだろうか、なんて考える。と同時に、今まですり抜けてきた手がいくつもあったように思えた。母だけでなく、これまで関わってきた人たちの、掴めたのに掴まなかった手や、握ってあげればよかったのに言葉を探すことに必死になって宙ぶらりんなってしまった手。

こんなことを書いていたら8月も下旬なことに気がついた。もうすぐ、大学生最後の夏休みが終わる。思えば今日まで、大切な人を大切にできる術を身につけられるほど大人になれた気がしないまま、いたずらに月日を重ねてきた気がする。

だけどこの手は、言葉にならない想いを伝えることができる手だと。大切な人を包むことができる手だと。それだけひとつ、母に教えてもらってよかった。言葉に頼るのもいいけど、言葉にならないときに何もできない大人にはなりたくない、そう思った。


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