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世界が少しばかり違って見えるようになる、そんなものを

頭の中で無数の考えが浮かんでは消えていく。泡のような思考をつなぎ合わせて人に伝えることは、気が遠くなるほどにむずかしい。端的な言葉なんて到底無理だから、いつも冗長な言葉を並べてしまう。

頭の中にあるものを、圧倒的な創作に変換してしまうたちがいる。その人たちが生み出す作品のエネルギーは凄まじい。出会う前と後では、世界の見え方が変わってしまったりする。

人生ではじめて「世界が変わってしまった」と感じたのは、17歳で劇作家・野田秀樹さんの演劇を観たとき。NODAMAP第15回「ザ・キャラクター」公演だった。

最初はただ面白かった。言葉遊びがあちこちに散りばめられた軽快な台詞回しや、コミカルな演技。笑ってしまうシーンが沢山あった。次第に笑っていた内容が、ひんやりした不安に変わっていった。「もしかしたらこの話は」と本当の作品テーマに気付く頃には、物語はすっかり表情を変え、もう誰も笑ってはいなかった。

最後の宮沢りえさんの長回しの台詞が、今も忘れられない。ぐらぐらと揺さぶられて、最後には涙した。頭を殴られたような衝撃、そして大きな問いを抱えて、劇場を後にした。「演劇にしかできないこと」「物語が持つ力」を強烈に見せつけられた体験だった。

今週から野田地図の新作公演「正三角形」が東京藝術劇場が始まった。新作に寄せられた野田さんの直筆コメントには、まさにその体験のことが書かれていた。

劇場の椅子に座っていただけなのに、劇場を出る時には、世界が少しばかり違って見えるようになる。それくらいの芝居を創っていこうよ。

引用:NODAMAP第27回公演「正三角形」コメント


演劇は劇場の椅子に座らないと受け取れない。戯曲や映像では、その場で生まれる緊張感は味わえない。演劇は生ものだ。だけど、ずっと心にのこる。


私は多分、正反対のものを作る仕事に従事している。最近はSNSのショート動画をバズらせることに注力している。受け手はどこに出向く必要もない。スマホさえあればいい。時間は30秒、15秒でもいい。集中しないでも大丈夫。、一瞬で消費される。

優劣の話じゃない。演劇でないとできないことがあるように、SNSだから輝くコンテンツもある。駅そばみたいにパッと食べれるおいしいコンテンツは、ショート動画と相性が良い。それは世界をひっくり返すことはないだろうけど、その人の「今」を少しだけ豊かにできるかも。

だけど最近は、人生でじっくり向き合っていくべきテーマさえ、ショート動画の中でコンテンツとして消費されている気がする。答えを出す必要のないテーマに対して「これが世の真理です」と言い切る人。これは140文字の世界でも同じだけど。

SNSが好きでこの仕事に就いた。学生の頃、別の国で暮らす知らない女の子の「モーニングルーティン動画」を見たとき、谷川俊太郎さんの「朝のリレー」みたいだと思った。

この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ

引用:谷川俊太郎「朝のリレー」

霞食べて生きていけるわけじゃないし、私の仕事は自己表現ではないから、この仕事を続ける限りは、闇鍋と化したプラットフォームの色々な側面を知らないといけない。

でも人生においては、アルゴリズムから離れた場所に、自分の言葉をのこしておきたいと思うようになった。今は1冊の本を作っている。早ければ夏が終わる前に出来上がるかもしれないし、秋になってしまうかもしれないけれど。

退勤してから深夜のファミレスでもくもくと文章を書いていると、中庸というのだろうか、バランスが整っていく感覚になる。一瞬の消費と普遍的なもの、浪漫と算盤、資本主義と社会主義…相反するものをいったりきたりしながら、私はグルグルと考え続けている。


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