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アジェのパリ#10/最晩年に出会ったソー庭園

「アジェの時代、カメラは機器も技術も急速に進化したんだ。1900年代に入ると早々にイーストマンコダックがNo.2Aブローニーが登場し、現像所というビジネスが現れた。アジェが使っていたような暗箱と三脚、18x24cmガラス乾板による撮影は、どんどんと時代遅れになっていった。1925年にはライカが35mmフィルムを使う小型カメラを出しているしね。」僕が他のアジェの写真集を見せながら言うと、嫁さんが応えた。
「アジェは使わなかったの?」
「うん。ずっと同じ機械を使い続けた。きっと技術には興味が無かったんだろう。彼の写真を撮る理由に、カメラの新旧は影響しない・・と思っていたんだと思う。だから時代の進化に超然としていられたんじゃないかな。だからアジェの写真は、20年の時間をかけて撮られているのにもかかわらず、そこに時間の経過を感じさせない。すべてまるで同時期にとられたような・・錯覚を起こされるんだ。」
「あ・・そういえばそうね。撮影年度は色々ね。でもみんな同じに見える。たしかに、これってパリが変わらない街ということだけじゃないわね。」
「ん。そうなんだ。アジェは記録者としてパリの街の風景を残そうとした。でも実は、それはアジェの心の中に映ったパリなんだ。

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アジェのパリの風景は、伴侶であるヴァランティーヌと一緒にカンパニュー・プルミエール17番地に暮らし始めた頃。1899年頃から止っている。」 「・・写真って・・怖いわね」嫁さんが言った。
「アジェが60才を越えて、自分の作品の散逸を恐れてフランス文部省へ主要なもの2621点を売るんだけど、実はその決断の背景には、体力に自信が無くなったこと、そして撮るべ写真が・・自分の中に無くなったからじゃないかなあと思う。」
「そんなことって判るの?」
「判る。目的をもって創る人には、自分の中に創るものがなくなったことは・・判る。
アジェが以降、ほとんど写真を撮っていない理由はこれだろう。」
「・・なんか哀しい話ね。」
「ん。でもね。アジェの場合、もう一度返り咲くんだ。1925年だ。アジェはパリ郊外にあった「ソー庭園parc de Sceaux」に出会った。彼は此処で、今までとは全く視線で写真を撮っているんだ。この庭園で撮った写真は80枚残っている。最晩年に、まったく違う自分を見つけるなんて、ほんとに凄い男だよな。アジェは」
「・・そうね。・・あなたは?」
「おいおい、そう詰めるなよ。それってイジメだぞ。」
「ふうん。ところで、そのソー庭園って何処にあるの?」
「パリの南の郊外ソー(Sceaux、オー=ド=セーヌ県)にある公園だ。200ha有るそうだ。もともとジャン=バティスト・コルベールの持ち物だった庭園だ。彼の城館と共に公園になっている。桜がいっぱい植えられているので有名でね。この時期は、在仏日本人の花見のメッカになってるよ。」
「行って見たいわね。」
「うん。そのうちな・・行こう。最晩年のアジェに逢いに。」

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました