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JAZZことはじめ#06/コードネーム奏法の確立

黒人楽隊の演奏は、和声的というより旋法的だった。彼らのルールは①同じ調性を守ること②同じテンポを守ること③同じ拍子を守ること、だった。それでもハーモニーが成立していたのは、やはり教会音楽からの素養であろう。たしかにポリフォニックだったが、明確に和声的に理解されていた訳ではなかった。
それがストリーヴィルの娼家で、椅子に座ってピアノと共に演奏を始めると、どうしても和声的な楽器であるピアノとの間の折り合いを付けなければならなくなる。ピアノも彼らと一緒に演奏するようになると、機能的な部分もあって、なし崩し的にリズム楽器という位置づけになっていった。旋律を奏でる楽器の背後で、和音のアルペジオあるいはブロックコードでリズムを刻むようになったのである。
おそらく・・ここからは想像だ。おそらくその段階で、和音と言うものを判り易く表現するために、ドからはじまるドミソをC。ファからはじまるファラドをF。ソからはじまるソシレをG・・などと呼び始めたのではないか。和音のルート名を、その和音のネームとして表すようになったのではないか。そしてこの和音が4音の重なりにったときは7thを末尾につけた。それが短三度の場合は♭7とした。短調の場合はルート音の後ろに記号のmを付けた。
これだと音符が読めないミュージシャンでも、譜面上に振られた記号-コードネームを追うだけで、曲の構成は理解できる。黒人の楽隊とピアニストの間で、こうした取り決めが出来上がっていったのではないか、と僕は想像する。

もしかすると、このブロックになっている和音にアルファベットで記号をつけるという発想は、以前からピアニストの間に有ったのかもしれない。しかしピアニストが、独りでピアノを弾いてる限り、必要なのはスコア/譜面であり、それがわざわざ略式化させたコードネームである必然性は薄い。やはりコードネームは、他楽器と一緒に演奏するために生まれてきた方法だと僕は考えたい。
もちろん東海岸にも、いわゆる軽音楽/ダンス音楽は生まれていた。しかしこうした音楽は、構成がきちんと出来上がっており、全員が自分のパートを譜面で追うので、ハナからコードネームなどというものは必要としない。
となるとやはり、コードネーム奏法と言うのは、ストリーヴィルの娼屋という特殊な音楽世界で、編み出され整理され進化したものだと、僕は思うのだ。
そしてストリーヴィルが閉鎖されたとき、その奏法を持って音楽家たちがミシシッピーを北上し、カンサス・シカゴへ仕事を求めて広がり、瞬く間に全米に広がったのではないか。僕はそう考えている。

整理すると・・コードネーム奏法は、ストリーヴィルの娼家に出演していた黒人楽隊とピアニストの間で1895年ころから1917年の間に約束事として成立し、ほぼ現況の形に完成された。それがストリーヴィル閉鎖と共に全米へ広がった。
こうして20世紀ポップスの第一歩が始まったのである。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました