見出し画像

銀座新古細工#08/ジャズ喫茶が青春の真ん中に有った

スバル街の中に有った「ママ」のこと・・・どうしても、なぜアソコへ行くようになったかが思い出せない。頭に浮かぶのは、あの小さなテーブルに乗った苦いコーヒーを前にして、紫煙の中に沈んでいる自分だ。いつの間にか、脈絡もなく僕は高校の帰り、毎日のように学ランのまま、「ママ」へ通うようになっていた。
それにしても、いつから行くようになったのか・・どうして、まったく記憶が欠落しているんだろうか。他のことは、まるでいつも着ているTシャツに付いた沁みのように、どこに何が有るか、よく憶えているのに。
うす暗い狭い店内。何色かあったビロード張りのマッチ。巨大なアルテックスのスピーカー。チョロチョロと時折テーブルの上に出てくる茶羽ゴキブリ。2時間20分の制限時間。コーヒー代130円。ちょっとシニカルで、アンニュイな、コーヒーを運んでくれるおねぇさん。
いまでも僕にとって、ジャズという音楽は、吉野家のBGMや小諸そばのBGMで聞く音楽ではなく、薄暗い店内で独りで黙々と対峙するもののように思えてならないのは、高校生時代の放課後の当然な日課として、この「ママ」通いが有ったからかもしれない。
そんなわけで、僕は毎日、学校帰りに山の手線を有楽町で降りて、スバル座の前にあった「スバル街」へ通った。スバル街は短い階段の上にあった。この階段。真ん中が下に向かうもので、両脇が階上へ向かうものだった。下に降りるとパチンコ屋。階段を上がると飲み屋街。その飲み屋街の中、右側に「ママ」が有った。ちかくまで行くと、店内の大音量のジャズが外に漏れている。それを聞くと、いつも少し大人になったような気がした。16歳のころだ。
スバル街にはもう一軒、奥の方に「オロ」という店が有って、ここはジュークボックスでジャズのEP盤をかけていた。ちょっと妖しい雰囲気でね。学ラン姿では入り難かったなぁ。
この辺りが、敗戦の傷跡として街娼たちの街だったことを知るのは、ずっと後の事なんだけど、僕が通っていた頃も、そんなアブない妖しげな感じは、充分残滓として有ったように思う。僕が何となくスバル街に魅せられたのは、もしかするとその「妖しさ」と「ジャズ」が、僕の中では絶妙に重なり合うものだったから・・かもしれない。
ちなみに。「オロ」はスバル街が立ち退きで無くなったあと、御幸通りから入っていく国鉄のガード下で中華屋を開いた。こちらの方は足繁く通った。お父さんが蒋介石のとこのコックさんだったからという話を聞いたことが有る。「ママ」は新宿の南口に移って行った。
まだ高校生だったし、LPは高かったからね。買いたいものはいつでも先ず有楽町の「ママ」で聞いてから買うようにしてたんだ。だから欲しいなと思ったLPは、席を立って前に出されたLPのジャケットを手にして、その名前と発売元をノートにメモした。
そしてそれをベースにして、やっぱり毎日「ハンターレコード」に通った。あのころの「ハンター」は軍関係のアメリカ人が帰国する際に売っぱらってくLPが、ほとんど毎日のように入荷してたからね。行くたびに発見が有った。だから西銀座もソニービルも、学校帰りは毎日要チェックだったんだ。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました