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小説特殊慰安施設協会#49/廃業命令

2月2日。正式な廃業命令が警察から通達されると、全国の慰安施設は次々と閉鎖されていく。R.A.A.も準備を進めた。そして3月27日、R.A.A.は全ての慰安施設全店を閉鎖するという通達を全社に出した。その通達は、まったく根耳に水だったので娼妓全員が動揺した。
閉鎖通達は、朝一番に書面で全店舗に向けて出され、内容は即日その朝で閉店というものだった。あらかじめ店に伝えると、不穏な動きが出るかもしれないという高松の思惑から、そんな無茶な閉店策を取ったのだ。 その閉鎖を伝える席で、高松慰安部部長は、娼妓(彼は社員と呼んでいる)たちに以下のような演説をしている。場所は大森海岸の小町園である。

その演説を、橋本嘉男が昭和31年に出した「百億円の売春市場」から引用する。
「マッカーサー指令で、今日限りただいますぐ、R.A.A.関係の慰安所は一切オフリミットになったから、諸君は適当に職を探してもらいたい。今日まで言葉につくせぬ苦労をしていただいたことは、ほんとうに責任者として心から深く感謝する。諸君の力と犠牲で、おおく一般婦女子の純血がまもられたことは、歴史的な事実であって、こうした諸君のちのにじむような努力は、必ずや構成の人たちによって報いられるに違いない。
ただ残念なことは、そうした諸君のお骨折りに対して、R.A.A.として、何のお礼もできないことである。
ご承知のように協会は、営利事業ではなく国策的な事業であった関係上、ほとんど利潤はあがっていない。ひとつの例をとってもわかるように、諸君の玉台からは何のピンハネもしていない。膨大な設備、人件費がかかっている。どうかせめてお国のために尽くしたという、ただ一つの誇りを土産とし、慰めとして、お別れしていただきたい。」

その通達と演説は、娼妓たちにとって8月15日の、あの日の放送のように突然降ってきたものだった。彼女たちは、先ず意味が分からなかった。そして次に途方に暮れた。未来の全てが、その瞬間に閉ざされたのだ。
R.A.A.は、その日の夕方までに娼妓はすべて自分の荷物を持って慰安所を出るようにと通達した。そして、その日までの給与は全て店の帳場で、現金で支払われた。それは慰労金が相当額乗せられて、かなり分厚い封筒が一人一人に手渡された。娼妓たちは、本部から事務員に「はい、ご苦労さん。ご苦労さん」と封筒を渡されながら、そのまま慰安所を追い出された。
店の外には、事務員たちが立てた「CLOUSED」の看板とQHWが立てた「OFFLIMITS」の看板が有った。その前に、ぼんやりと立っている兵士たちが何人かタムロしていた。娼妓たちは悪態をつきながら、その兵士たちの間を抜けた。兵士たちが話しかけても娼妓たちは誰も返事をしなかった。

ところで。その娼妓たちが給金を受け取るとき、知らなかったことがある。彼女たちが受け取った給金の大半は旧円だったのだ。R.A.A.は、裏金として用意していた帳簿外の金を給金として、彼女たちに渡したのだ。
前月2月16日、日本は貨幣を新円に切り替えていた。娼妓たちが受け取った旧円は、すべて自分たちの手で新円に換えなければならない。しかし旧円を新円に換えるには、銀行で自分の身分と住所を証明するものが必要だった。慰安所を保々の体で追い出された娼妓たちに、そんなものは無い。こうしてR.A.A.を追い出された娼妓たちは、旧札を握ったまま銀行の前で、再度途方に暮れることになるのだが、そのときは誰も気が付かなかった。

この3月27日の慰安所全店閉鎖が、それほど大きな混乱にならなかったのは、3月25日の段階でR.A.A.の全慰安所がOFFLIMITSになっていたからだ。 実は2月に入ってから、OFFLIMITSを食らった慰安所の再開が極端に遅くなっていた。11月の終わりに荻窪に有った六階建ての病院を買って、これをR.A.A.病院として娼妓の治療にあたっていたのだが、2月に入るとOFFLIMITSを食らった慰安所で発見された罹患者は、全員ここの病院で待機させられた。
「病気もちじゃない社員が少ない。だから再開できないので、しばらく待機してくれ」と、高松は慰安部社員に説明をさせていた。

それもあって慰安部社員の間にも「慰安部閉鎖?社員は解雇?」という不安が走っていた。高松はそれを払拭するように、自分が慰安部長とキャバレー部長を兼任する旨、社内に公示した。
「林君が辞職しとるからね。これ以上、現場の混乱を放置できんので、俺が兼任することにする。なのでいずれは、二つの部を統合するだろうから、諸君はそのつもりでいてくれ。」
高松は、キャバレー部/慰安部の社員全員を集めた席で、そう言った。ふたつの部の統合・・それが何を意味するのか、全員が察した。
「あ。それと。萬田」とその席で高松は千鶴子を指した。
「はい。」
全員が息をのんだ。
「お前は、本日から昼間の仕事はしなくていい。夜のダンサーだけに専念してくれ。お前がしてる翻訳の仕事は、そろそろないからな。もう来なくていい。」
「・・はい。」千鶴子は気丈に応えた。
その千鶴子を、少し離れた席のヘレンが見ていた。目が合うとヘレンは急いで手にしていた書類に目を移した。 
その夜、解雇された話を千鶴子はゲンと小美世にした。
「オレも辞める。」ゲンが言った。
「ダメ、お願い。それだけは止めて!」珍しく千鶴子が強く言った。
「・・でも」
「ダメ。もしゲンちゃんまで私のせいで辞めたら、私は申し訳なくて此処に居られなくなるわ。」
ゲンは黙って下を向いた。
小美世が言った。「・・よかったわね、チヅちゃん。そろそろもう一歩進みなさいというお天トさまのお心よ。ありがたいじゃないか。あの会社のおかげで、チヅちゃんは一歩前に進んだんだし、そして私たちにも会えた。こんなにうれしい事は、そうそうないわよ。 もう一歩進みましょ。あたしたちは、あなたの味方よ。」
千鶴子は黙ったまま、深く頭を下げた。その目からポロポロと涙が卓袱台の上に垂れた。

翌朝一番、千鶴子は事務所へ辞表を出した。
「短い間でしたが、ほんとうにありがとうございました。」
千鶴子は深々と頭を下げた。それに応じて事務所にいた全員が立ち上がって、頭を下げた。その中に唯一席を立たない者がいた。ヘレンである。
2月28日の寒い朝だった。その日は、陛下が午前9時より銀座中央通りを巡幸される予定だった。そのため無数の警官が中央通りに並んでいた。
その中央通りを、千鶴子は4丁目に向かって歩きながら思った。
・・ちょうど5か月まえだ。R.A.A.の玄関の前に、新聞広告を握りしめてモンペ姿で立ったのは。私は、また振出しに戻ってしまった。でも・・モンペ姿じゃない。蓄えもある。振出しに戻ったけど、ゼロじゃない。私は、あの日のように。嫁ぎ先を飛び出してきた時と同じように。私は私らしく生きようと決めたんだ。後悔なんかない。・・それに。
千鶴子は無意識にお腹を撫ぜた。私は一人じゃない。
妊娠していたのだ。
数週間前の検査で知らされていた。・・あのクリスマスの夜だったことは間違いない。もちろんワッツ中尉には言っていない。中尉には自分が既婚者であることも話していない。なのに妊娠したと言えるわけが無い、と千鶴子は思っていた。それにワッツ中尉はカトリックだった。だから、どうなるものでもない。一人で産み、一人で育てる覚悟はしていた。
でも。小美世さんにも妊娠の報告はしていない。・・これから先、仕事は・・そう思うと、千鶴子は松坂屋のOASIS OF GINZAの前で立ち止まってしまった。
どうすればいいんだろう。
その時、後ろから声をかけられた。
『マンディ。ずいぶん待ったぜ。』ワッツ中尉だった。『冷たいよな。マンディ。昨日の夜、お宅の店のボーイがウチの兵士に、口伝えで俺に教えてください!って言ってくれなかったら、俺たちはもう会えなかったぜ。』
ワッツ中尉はジープに寄りかかりながら、ニヤニヤ笑いながら腕組みをしていた。千鶴子は驚きのあまり、何も言えなかった。
『マンディ。乗れよ。連れていきたいところがあるんだ。』
『ど、どこに?』
『君の新しい仕事場さ。さ。乗れよ。』
ワッツ中尉は、ジープの助手席のドアを開けた。
『さ。乗れよ。行くぜ。』

そのジープが向かった先は、半年前に小美世とゲンで出かけた東京宝塚劇場だった。いまはアーニーパイル劇場と名前を替えていた。
接収されたのは、前年の11月。第一回目のショーが1946年2月末から始まっている。伊藤道郎演出の「ファンタジー・ジャポニカ」である。ちょうどそのショーの真っ最中だった。
ワッツ中尉は正面玄関にジープを停めると、千鶴子を連れて総支配人室に上がった。
椅子に座っているのはパーカー中尉と云う神経質そうな白人だった。彼は舐めるように千鶴子を見回した。千鶴子は二の腕が小さく粟立った。
『アンディの紹介なら文句はない。接客係として明日から働いてくれ』パーカー中尉が笑いもせずに言った。
千鶴子は思わず「結城支配人は?」と言いそうになったが、言葉を呑んだ。そして『ありがとうございます』とだけ言って頭を下げた。パーカー中尉は無言だった。

得意満面なワッツ中尉と共に総支配人室を辞すと、千鶴子が言った。
『ちょっとご挨拶していきたいところがあるの。』
ワッツは怪訝な表情をした。『OK。俺は帰る。良いかい?明日、昼に来るよ。ランチしよう。』
『ありがとう・・あ』千鶴子は戸惑いながら言った。
『ん。なんだい?』
『・・なんでもない。じゃ、明日。』やはり千鶴子は妊娠したことを言い出せなかった。
ワッツ中尉と別れて舞台裏に回ると、何人もの知り合いの顔が有った。
ショー開演前の準備で全員が大わらわの時だったが、踊り子たちは、千鶴子を見つけると練習を中断して、千鶴子のところへ集まった。そして「小美世さんとこの!」と皆が口々に言った。
「萬田千鶴子と申します。その節はありがとうございました。この度ご縁があって、明日からですが皆さまのお手伝いをさせていただくことになりました。よろしくお願いします。」
千鶴子が深々と頭を下げると、みんなが歓声をあげた。
「実はいま総支配人室に伺ったのですが、結城さんは?」
「あの蛇男が使ってるのよ。結城総支配人は別室を使ってるの。」踊り子の一人が顔を顰めて言った。
「よかった・・お辞めになったわけではないんですね。」
「今は、ダブル総支配人なの。でも仕切ってるのは、あの蛇男。結城さんは雑務ばかりに回されてるわ。まだお会いしてないの?」
「はい・・まだ。」
「あたし、ご案内するわ。」踊り子の一人が言った。
「ありがとうございます。」
そう言いながら、千鶴子は舞台の向こうに並ぶ客席を見た。・・明日から。
どんな人生が始まるんだろう。そして・・今夜。私は何て小美世さんとゲンちゃんに話せばいいの?

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました