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ご府外東京散歩#07/開かれたマチ・閉じられたムラ

豊臣秀吉は、"農"と"武"を分離した折、"農"は原則ムラ単位で自給自足とすべしとしている。「ムラ」とは「ムレ」である。群れは自己完結せよ。着るものも履くものも道具も食うものも全て「ムレ」単位で自産自消せよとした。

では。ここでいう「ムラ」とは如何ほどのサイズか?
大化改新では、この「ムラ」という単位を「里」と言っている。
里は50戸を単位とし、これが集まったものを郡としている。郡の集まりが国だ。
この50戸=1里は、後年さらに分解され5戸を一つとする隣保組織に替えられていく。納税は保単位で行われ、5戸の中で支払えない者が出れば、それを残りのものが補填すること、とされた。
荘園時代に入ると、荘園主が管理しやすい「庄保郷里」体制が中心となるが、秀吉が天下統一を始めると再度「里郡国」体制に戻され、郡を以て里を統轄する形へと落ち着いた。それを家康は踏襲したわけである。

徳川幕府は、郡単位での自治体制を強化し、名主/組頭年寄/村役人(百姓代)にこれを管理させた。幕府が望むのは、宛がわれた担税を完納することで、それ以外ことは大半管理者に任された。動産/不動産/金銭など貸借・売買を含めて、資産は村(里)内部で自由に移動継承できるものとした。その背景にあるのは「何かあれば、ムラ端で全体責任をとる」というスタンスである。こうした「ムラはムラで自己完結せよ」という体制を守るために、ムラは自分の農民以外の者の移住を極端に嫌うようになった。施政者側も"治安維持"という名目で、余所者が村内に立回ることを厳しく監視せよという触れ書を出した。
例えば、小榑村五人組帳の前書には「出所の知れない他国の者は牢人(浪人)、商人、乞食たりとも一夜の宿を貸してはならぬ」とある。
「天保五年上石神井村五人組帳」にも、若し止むを得ず旅人などに宿を貸す場合でも「旅人ニ一夜之宿貸シ候共名主五人組江可相断、無拠儀有之翌日も逗留仕においてハ名主五人組立合吟味之上留可申候、尤怪敷者一夜之宿成共貸シ申間敷候事」とある。

つまり、新参者の参入をどんどん受けいれる「開かれたマチ」に対して、余所者は極力排除する「閉じられたムラ」という構造が常態化したわけである。
こうした体質は明治に入っても残った。土支田村の「郡中制法伍人組帳(明治3年)」にも「他処人、人別に加り度願出るものあらハ、出処産業等聞糺し是迠之在所役人よりの送り状を取り、人柄不審も無之請人等も有之ハ其書ものをも取置、願出聞届之上五人組へ加ふへし、其儀なく不審のものを留置ニおいてハ五人組之者可為越度事」という一文がある。
連帯責任という考えはそのまま根強く残っている。

しかし・・幕府がムラ内部での売買貸し借りを黙認したことで、結果ムラの中には大きな富の偏析が起きていく。最大の理由は貨幣が農家の間でも普通に流通するようになったからだ。
特に江戸周辺農家の明暗は大きく別れた。
なぜそれほどまで、農家に貨幣制度が浸透していったか?江戸周辺農家で考えてみると・・現物供出の水田ではなく、貨幣で納税する畑地が急速に増えたからである。
本来、関東地域での新田開発は官指導で行われたものだった。こうした官製新田は大半が水田だ。官製の用水路を利用して、生産体制は維持されていた。旧来からある農家はその用水の御余りをもらうという構造になっていた。でなければ、膨大な資金を用意して自分たちの水路を開削しなければならなかった。
そのうえ、平野部で用水を循環させる勾配を取るのは至難だった。関東はローム層である。水はいとも簡単に地面に吸い取られて姿を消してしまうのだ。
結果として、江戸周辺の新田開発は、時代と共に水田より畑地に大きく偏るようになっていった。多摩地区の場合、その差は8:2だ。足立郡でも江戸に近い地区は畑地中心であり、これは新座郡/入間郡/高麗郡でも同じだった。特に江戸市中に幾つも近在農産物の市場が立つようになると、その傾向は顕著になっていった。農家は作物を売り現金を手に入れ、それを蓄財して税を払うという形になっていったのである。
石高制で小作人単位での租税の徴収が原則だったときは、それほどではなかったが、農家でも貨幣の介在が常習化し始めると、完全に表面化した。富める農民と貧しき農民に、はっきりと二極化したのである。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました