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ナポレオン三世の足跡を#01/ニシム・ドゥ・カモンド美術館

先回、訪巴里した折、到着翌日朝一番にモンソー公園カモンド伯爵邸を訪ねた。8区にある。
ニシム・ドゥ・カモンド美術館(Musee Nissim de Camondo)と名付けられて、今は一般公開されている。19世紀末の大富豪の個人邸宅が如何ほど豪華だったか、偲ばせる建物だ。
モンソー公園に隣接しており、開館する10時まで此処を散歩した。
モンソー公園はパリ市内にある最も瀟洒な公園で、時間を取って訪ねるのに相応しいところだ。駅はメトロの2番モンソー駅だが、僕らはバス84番を利用した。ここもバス停の名前はモンソーだ。

「この辺りは昔から金持ちの町だった。とくにペレール兄弟(Freres Pereire)を中心にして大改造が19世代に帝政期に行われてからは、現在に至るまで高級住宅地と高級ホテルが並ぶ地域だ。」
「だれ?ペレール兄弟って。」
「銀行屋だ。ナポレオン三世がフランスの皇帝になると、それに乗じて大金持ちになったユダヤ人だ。ナポレオン三世の命令で、パリ市の大改造を担ったオスマン男爵と共にパリの徹底改造を目指した。この公園内を走ってるフェルドゥズィ大通り(Avenue Ferdousi)とラ・コンテス=ドゥ=セギュール並木道(Allee de la Comtesse-de-Segur)は彼が企画し、彼が作ったもンだ。」
「セギュールって、カロン・セギュールのオーナーだった、あのセギュール?」
「いや、カロン・セギュールのオーナーだったニコラ=アレクサンドル・ド・セギュールNicolas-Alexandre, marquis de Séguの従兄アンリ・フランソワ・ド・セギュールHenri François, comte de Ségurのことだよ。beau Ségur ハンサム・セギュールって呼ばれてた。一族一番の伊達男だったそうだ。」
「つまらないことまで、よく知ってるわね。」
「・・だったら聞くな。」
「ふぅん。この辺って、銀行が作った街の?」
「ああ。クレディ・モビリエ銀行だ。あの銀行はアメリカの大陸横断鉄道にもクビを突っ込んでる。投機をメインとした銀行だった。一時はロスチャイルド家と妍を競って巨万の資産を為したが短命だった。この辺りは彼ら兄弟の夢の跡だ。投機と投資は目的も品格も違うもんさ。」
これ以上、続けるとペレール兄弟の話だけで一日終わりそうだから止めておいた。
モンソー公園は美しい。ここを愛した人々は多かった。ジョルジュ・サンドとショパンもそうだった。二人は此処をよく散歩していたという。
「クロード・モネも此処を愛した。彼は此処をテーマにした絵を五枚描いている。」
「睡蓮?」
「いや、あれは違う。」
大きな公園ではないので、見て歩くのにそれほど時間はかからない。そぞろ歩きをしているうちに10時を回ったので、カモンド伯爵邸へ入った。
嫁さんが驚嘆した。桁違いに豪華絢爛な邸宅だ。
「すごいわね、これが個人宅だったの?」
「ん。19世紀の金持ちたちはみんなこんな感じの家に住んでいたらしい。モイズ・ド・カモンドはトルコ系のユダヤ人銀行家だ。彼はマリー・アントワネットが愛したヴェルサイユ宮殿のプチ・トリアノン宮に魅せられて、そのオマージュとして此処を建てたそうだ。ついでに金に任せて貴族の称号を買って伯爵になっちまった。」
「貴族って売ってたの?」
「うん。法服貴族( Noblesse de robe)ってな、売ってた。金ができれば名誉が欲しくなるのは世の常さ。でも、貴族になれば一朝事有れば前線に赴かなくてはならない。貴族と云う存在は騎士だからな。モイズ・ド・カモンドには長男ニッシム(1892-1917)と娘ベアトリス(1894-1945)が居たんだが、長男ニッシムは、第一次世界大戦のときパイロットとして参戦して戦死している。」
「哀しい話ね。」
「モイズ・ド・カモンドは後継者を失って落胆し、隠遁生活に入ってしまったんだ。そして1935年に亡くなると、彼の遺言でこの邸宅は装飾美術協会へ寄贈され、愛息ニッシムの名前を付けて美術館としたんだ。」

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました