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小説特殊慰安施設協会#43/オアシス・オフ・ギンザ

もちろん、対GHQへの窓口としての仕事もある。宮沢理事長は、こうした仕事は全て林譲に回していたが、10月にはいると英語が話せる社員が集まり始め、交渉以外の具体的な作業を任せられる人間が急速に増えいた。林譲は可能な限り仕事を彼らに振った。采配は千鶴子に任していた。しかし慰安部の仕事の担当は戸田ヘレンだった。

高松部長は、横浜税関ビルの米軍第八軍へ通うときは常にヘレンを同道し、慰安部の英語を話せる人材の採用担当はヘレンになっていた。ヘレンは急速に慰安部の中で台頭していた。

「あたしはもう萬田千鶴子には負けていない。」ヘレンはそう思っていた。その冷たいヘレンの視線に、千鶴子は気が付かなかった。夜のダンサーの仕事、昼の林譲の仕事に翻弄されていたのだ。

こうして11月2日・金曜。満を持して「オアシス・オフ・ギンザ」が、松坂屋の地下に開店した。
オープンセレモニーには、R.A.A.役員全員が集合。GHQからはハッチンソン大佐。第八軍からはアンダーソン中佐が参加した。もちろんMPと共にワッツ中尉の姿も有った。
宮沢理事長があいさつした後、キャバレー部・林譲部長も壇上に立った。
林譲は、スタッフ全員への感謝の言葉と、此処に至るまでの経緯の話をした。話をしているうちに涙声になってしまった。その話を聞いて、直立して聞いているスタッフの中にも、ポロポロと涙を流す者が出た。

千鶴子は、ダンサーとしてそのオープニングセレモニーに参加していた。末席でその林譲の話を聞いているうちに、ふと気になることがあった。それは、話の中に"未来を語る言葉"が一つもないことだ。林譲の話は、スタッフの労を労う言葉と、感謝の言葉だけだったのだ。林部長らしくない。千鶴子は、そう思った。

オープンセレモニーが済むと、すぐに開店である。店外で待たされていた米兵たちが、怒涛のように入ってきた。初日はダンサーたちが招待した米兵中心ということになっていた。兵隊たちは、馴染みのダンサーを見つけると、手を振りながらすぐにカップルになった。千鶴子の相手は、ワッツ中尉だった。
店内は嬌声に溢れた。
林譲は、そんな様相を少し離れたところから見つめていた。その目には哀しみがあった。千鶴子はワッツ中尉と踊りながら、目敏くそんな林譲の表情を読み取った。

松坂屋地下の「キャバレー・オアシス」を最後に、キャバレー部は新店を出さなくなった。慰安部も土地建物は買うが、そこから先は進まなくなった。買い取った料亭の調度品は、他店舗で使用するという名目で持ち出され、大半がそのまま行方不明になった。
さて。この「オアシス・オブ・ギンザ」だが。
高見順の日記の中ににこう書かれている。

「1945年11月14日
松坂屋の横に Oasis of Ginza と書いた派手な大看板が出ている。下にR・A・Aとある。
Recreation & Amusement Association の略である。松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。
「のぞいて見たいが、入れないんでね」というと、伊藤君が、「地下二階までは行けるんですよ」
地下二階で「浮世絵展覧会」をやっている。その下の三階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に降りて行くと、三階への降り口に「連合国軍隊ニ限ル」と貼紙があった。「支那人と犬、入るべからず」という上海の公園の文字に憤慨した日本人が、今や銀座の真中で、日本人入るべからずの貼紙を見ねばならぬことになった。

しかし、占領下の日本であってみれば、致し方ないことである。ただ、この禁札が日本人の手によって出されたものであるということ、日本人入るべからずのキャバレーが日本人自らの手によって作られたものであるということは、特記に値する。さらにその企画経営者が終戦前は「尊皇攘夷」を唱えていた右翼結社であるということも特記に値する。

世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて■■屋を作るというような例が--。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、■■婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました