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JAZZことはじめ#07/北上する黒人労働力


20世紀が始まるころ、娼家で黒人楽隊と座付きピアニストらが演奏していたのはティンパンアレーと言われる音楽だった。主にニューヨークで量産され、都会で流行しているというシートミュージック(一枚楽譜)がカタログ販売で売られていた。これが送られてくると、ピアニストが弾き黒人楽隊が憶え、合奏した。
先ず与えられた譜面の通り演奏し、それに全員で奏でる長いアドリブが入り、最後にまた譜面通りに演奏するというスタイルである。こうした形式は、次第にニューオリンズ・スタイルと呼ばれるようになっていった。
いつも思うのだが、もしストリーヴィルという土壌が無かったら。きっとジャズはニューオリンズに立ち現われたマーチングバンドの変形で終わり、おそらく早い時期に消え去っていただろう。譜面が読めないから、とりあえずみんなでドガジャガ演るという安易さからたまたま生まれた、テーマ→即興→テーマという形式が固定化され、昇華させていけたのは、やはりこうした方法で音楽"する"ことを許す環境が有ったこと。そしてそれが専業化できる環境が有ったこと。この二つの僥倖が得られたおかげではないか。僕はそう思ってしまう。僕らは、ニューオリンズ/売春地帯ストリーヴィルが持っていた、音楽的な包容力に深く感謝すべきだろう。

こうしたニューオリンズに生まれた演奏スタイルはストリーヴィルの売春窟の中だけに収まらず、20世紀に入ると急速にミシシッピー川を北上し川上の都市でも聞かれるようになっていった。
そのきっかけになったのはショーボートの隆盛であろう。
ショーボートはミシシッピー川を上下する遊覧船で、これには必ずバンドが乗っていた。船内で様々なレビューが演じられていたのだ。そのショーを支えたのが、ニューオリンズスタイルの黒人器楽奏者だった。残念ながらショーボートは次第に衰退し飽きられていくのだが、ここを仕事場としていた黒人の器楽奏者は、新しい仕事場を求めてミシシッピー各地の都市部に留まり、それぞれの街に有ったキャバレー/芝居小屋などで仕事をするようになっていく。これが辺境な地の一音楽でしかなかったニューオリンズ・スタイルを急速に広げていくきっかけになったのだ。

当時は南北戦争後、第二の黒人労働者の拡散期でも有った。
当時流行ったブルーズの中にも「フォードの工場へ行こう。丈夫なら5ドルの給料がもらえる」という歌があったほど、南部ミシシッピー以西で働いていた黒人たちが、もっと安定した豊かな生活を求めて、北へ北へと移動した時期である。例えばシカゴだが、1900年の調査を見ると黒人は10万人を前後する数だったのだが、これが1920年に入ると40万人近くになっている。リンカーンが考えた「黒人労働力の流動化」は、50年を経て大きな潮流として再度立ち現われるのだ。
それはアメリカの工業地帯で、フォードが考えたようなベルトコンベア式の大量生産が確立したためである。工場は流れ作業方式を採用するようになると、より多くの労働力を必要とし、彼らが南部から流れてきた大量の黒人を、ドンドンと受け入れて行ったのだ。

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黒人でも白人でも、労働力として見れば出来る仕事の量は同じだ。工場は肌の色に関係なく"平等に"給与を支払った。
これはまさに"画期的"だった。
労働が人種差別されないこと。これはきわめて重要な"アイデンティティ"自尊心を、黒人たちの間に育んでいったのだ。
そして安定した生活が安定した収入から確立し始めると、それが彼らに貧しくとも心豊かな生活をもたらし、子らへの教育へ強い関心を産み出して行ったのである。黒人が黒人としてのプライドを、着実に育んでいったのは、この時期からである。

そしてこうした社会現象は、黒人たちが生産力に伴って、一定量の消費力も持つことでもある。新しい「黒人向け」というマーケットが各地に台頭してきたのもこの時期からである。
黒人向け化粧品。黒人向け衣料。そして黒人向け音楽、など多くのものが各地の都市で生まれた。
中でも「黒人音楽」というジャンルの確立は、逆流して白人たちの音楽産業にも大きな影響を与えて行くのだが、その根底には「農業から工業へ」という時代の潮流が有ったのではないかと僕は考える。

アメリカ合衆国の人口構成比は、国として広くなり人口が移民によって増えて行っても、相変わらず農村部90%都市部10%だった。いわゆる開墾できる土地を限りなく提供できることが、アメリカ人にフロンティア精神をもたらし、アメリカをアメリカにしてきたのだが、これが19世紀最後半から反転する。工業が産業として拡大化すると、見事に反転する。アメリカは都市部に人口が集中する国家へ姿を変えるのだ。そして様々な人種が寄り集まる都市部は否応なくメルティングポット化し、文化は溶け合っていく。

音楽の世界で見ると、黒人器楽奏者たちのスタイルだったニューオリンズ・スタイルは、人口集中化の結果として、白人器楽奏者たちにも模倣されるようになっていった。模倣者の多くはアイルランド人だった。彼らはこれを「デキシーランド・スタイル」と自称した。
実は最初にレコード化されたジャズは、彼らアイルランド人の演奏するものだったのだ。これを取っても白人ジャズマンが如何に急速に増えて行ったか、そしてニューオリンズ・スタイルが如何に急速に一般化していったかが窺い知れると云えよう。
もちろん、黒人と白人が混ざって演奏することは稀だった。しかしマーケットは殆ど同じで、重なるように白人バンドにも黒人バンドにも仕事があった。これがこの時期からの音楽業界の特徴である。つまり。言ってみれば・・アメリカは、先ず音楽から「平等」が生まれたのである。

こうした「音楽の平等化」が、アイルランド人の俗謡を祖とする「田舎の音楽」ヒルビリーやカントリーソングにも大きな影響を与えて行った経緯は面白い。彼らもまたティンパンアレーの音楽様式AABA形式の曲を演るようになり、リフの部分もアドリブパートとして大きく変化を遂げて行ったのである。
そしてもともと異質で、重なることが無かったブルーズマンにも、この「音楽の平等化」は大きなデバイスとして影響力を持った。とくに女性ブルーズ歌手は、仕事場を都市に移すことで、ニューオリンズスタイルの発展形である「スイング・スタイル」のバンドと共に仕事をするようになり、ブルーズからティンパンアレー・ソングへシフトしていったのだ。
バンドに専属歌手が付き、彼女たち/彼らがティンパンアレー(スタンダード)あるいはそれを模したバンドのオリジナル曲を唄うようになるのは、1920年代になってからである。
こうして「偉大な」スイング・エラが確立していった。

翻って・・ニューオリンズスタイルの楽隊たち、デキシーランドスタイルのアイルランド系楽隊は衰退していった。彼らは仕事場を失ってニューオリンズへ戻った。しかし戻ったニューオリンズも、既にストリーヴィルは無く、街としても産業は衰退し始めていた。なので多くの音楽家は、専業からまた兼業へ戻り始めた。こうしてジャズを産み出した胎盤とも言うべき音楽は深い惰眠みの中へ沈んでしまう。かれらに再度スポットが当たるには50年ほどの時間がかかることになる。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました