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僕の日比谷・僕のアーニーパイル劇場#02

拙書「小説特殊慰安施設協会」から引用する。
萬田千鶴子と小美代、ゲンが『東宝芸能祭り』を観劇した部分である。
「日比谷にある東京宝塚劇場は、帝国ホテルの隣にある。この二つの建物は空爆目標から外されていたので、殆ど損傷のないまま終戦を迎えた。銀座通りの服部時計店、松屋デパート、松坂屋、そしてGHQ本部が置かれた第一生命会館などは屋上に高射砲が設置されていたのにも関わらず空爆の対象外になっていた。
サイパン島を陥落し、同地から日本本土へ空爆が出来るようになると、米軍は勝利を確信したのだろう。戦後の接収を鑑みた空爆計画を立てたのである。都内で絨毯爆撃に晒されたのは主に無辜の人々が暮らす住宅地域だけだったのだ。 」
「東京宝塚劇場は1944年3月に日本軍へ接収、落下傘工場として利用された。工員はこの劇場に出演していた踊り子たちだった。このビルで風船爆弾が作られたことを語る者は少ない。
1945年、8月15日。同ビルのなし崩し的な返還を受けると、東宝本社は8月27日に劇場早期再開を決意し、9月18日に終戦後最初の演目をかけると決定した。演目は「東宝芸能祭り」である。
大道具、小道具、楽隊、舞台装置もママならない。しかし、やる!と本社は決意したのである。
出演者はつい先月まで落下傘を作っていた女子たちである。演目は通しモノの芝居ではない。色々な演芸を集めたもので良い。本社はそう決めた。幾つもの出し物をタペストリーのように紡ごう。そうして焼け跡に最初の希望の灯火を立てよう・・と。
その出演者の何人かが、終戦前から小美世の弟子だった。彼女たちは出演が決まると喜び勇んで小美世に報告にきた。そのとき「総支配人が、結城さんが、小美世さんに届けてくれって」と言って招待状を持ってきたのである。小美世と結城雄二郎は旧知の仲だった。」
観劇の当日、東京は大雨だった。
千鶴子ら三人は支配人室に案内された。
「"それにしても、燃えなかったんですわね。この辺り"小美世が言った。
"はい。幸か不幸か・・アメリカは、東京を空爆し始めた頃には、この戦争は勝つと思ったんですよ。それなので、終戦後に接収するつもりのビルは全て爆撃目標から外したんです。隣の帝国ホテルも。うちも"結城総支配人が言った。
"接収?"R.A.A.の事務所で何度も聞かされている言葉だ。千鶴子は思わず声に出してしまった。
"はい。第一生命ビルを口切に、多数のビルが米軍のモノになっています。ここも狙われているのです。どうやら連合軍兵士用の劇場を、彼らは作るつもりのようなンです。候補として日本劇と此処が・・挙がっているとの噂です。
ま。ソレもあってね、すぐさま興行を始めたわけですよ。このあとはすぐ長谷川一夫の芝居をかけます。なんとか既成事実を重ねて、接収を避けたいと思っているのですが・・どうなることやら"
その結城の懸念は当たった。
この『東宝芸能祭り』終了後、長谷川一夫公演の立ち稽古最中に、東京宝塚劇場はGHQに接収されてしまう。そしてアーニーパイル劇場と名前を替えて、連合軍用劇場として翌年2月から開業している。・・R.A.A.退職後、そのアーニーパイル劇場で働くようになるとは、千鶴子はそのとき思いも付かなかった。」

GHQにより接収されたのは1945年12月24日だった。その日の朝、唐突に終戦連絡事務局の人間がロバート・バーガー中尉Lieutenant Robert Bergerと数人の将士を伴って結城雄次郎を訪ねた。そして接収通知を出した。

「本日をもって本劇場は第8軍の管理下に入る」という通告書だった。
結城は半ば覚悟していたので殆ど動じなかった。
「本劇場の総支配人は本日より、ここに居られるバーカー中尉が就かれる。結城さんは補助に回ってください。」終戦連絡事務局の人間が言った。
「本劇場は連合軍兵士の為の専用慰安施設として利用される。運営費はすべて戦争賠償金で賄われます。」続けて終戦連絡事務局の人間がしゃべろうとすると、バーカー中尉が片手をあげてそれを制止した。
「補助に回るのは貴君だけではない。すべての業務に就いている者もだ。我々は、この劇場で兵士たちが納得できるレビューをやるつもりなので、主要スタッフは・・ダンサーも音楽家も舞台装置の製作者も、すべて本国から招聘する。」バーカー中尉は冷たい視線でそう云い放った。「そのつもりでいてくれたまえ。」
その横柄な態度の前に結城雄次郎は一言も言えなかった。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました