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小説日本国憲法 3-10/新札と旧札が飛び交う新生マーケット

2月18日月曜日の朝。新橋のヤミ市は閑古鳥が鳴いていた。露店はどこも開いていたが、買い物客は閑散としていた。
「これじゃ、俺たちも銀行に行ったほうが良かったなぁ」店主たちはぼやいた。
松田義一は、井出港区長のところへ出かけていた。
駅前のヤミ市を整備し、長屋形式で大きな建物を作るための打ち合わせである。来月早々に施工工事が始まる。
当初渋っていた区も、松田がハウギ少尉から受け取ったGHQの指令書を持ち込むと、態度を一変させた。そして全面的な協力するという話になっていた。GHQの指令書は絶大の威力がある。これを提示すると地元警察も松田に協力するようになった。区役所と警察の豹変が松田に松田組法人化に強い自信を与えた。
2月に入って、松田の夢はとんとん拍子にすすんでいた。

松田義一は、どうしても新橋ヤミ市を合法化したいと思っていた。非合法なら関東松田組が仕切るだけでいい。しかし何れは大型店舗が再開し、町の小規模小売店も商売を始める。そうなればヤミ市は自然消滅する。俺は、その時を漫然と待つつもりはない。それまでにヤミ市を正式店舗として認可させ、店構えもマーケットとして整備する。それしか生き残る道はない・・松田はそう考えていたのだ。ではどうすれば良いか。
この新橋ヤミ市の合法化に向けて、松田が南方時代の知人である小田部健吉と「合資新生社」を立ち上げたのは昨年末だった。

小田部健吉は戦時中、旧日本海軍の許でボルネオ/インドネシアなどの南方材買い付けをしていた男だ。おそらくその時代に松田と知り合ったのかもしれない。もともとは三井物産出身で、彼は海外で仕入れた南方材を木場の工場に貯め込んでいた。しかしこれが東京大空襲で全焼。戦況の悪化もあって小田部の会社は倒産してしまった。小田部は仕方なく終戦直前に地元の秋田へ戻り、同地で新しく小さな製材会社を立ち上げた。そこへ松田が伝手を辿って訪ねてきたのだ。
小田部は、現地でKAPA(タガログ語の男性名)と呼ばれていた松田義一が生きていたことに驚いた。
「カパさん。生ぎでおられだが!よがったよがった」小田部は松田義一に抱きつかんばかりだった。
その夜。松田が新生マーケットの話をすると、小田部は二の句も無く賛成し、建築資材全ての提供をその場で約束した。そして、金は松田、現物は小田部、社長も小田部と云うことで「合資新生社」が立ち上ったのである。
しかし新橋ヤミ市の合法化は至難を極めた。もともと新橋駅前広場は戦時中、駅の類焼を防ぐために住居店舗を強制立ち退きさせた所だった。そこへ、てんでんバラバラに露店を広げ始め自然に大きくなったものだ。だから土地所有も営業許可も取っていない。
そのうえ仕切っているのは松田組と云うヤクザである。そのヤクザ風情が何を戯言をいうかとばかり、役所は全く動こうとはしなかった。
新橋ヤミ市は日々大きくなっていた。しかし合法化は、どうしようもない袋小路へ落ち込んでいた。苦悩する松田に小田部健吉が事も無げに言った。
「GHQのお友だぢがら、指令書を貰えばエんだよ。松田さ支援すろでいうのをね。」強い東北弁訛りで、小田部は続けた「おめになら出すますよ。」
松田はその進言を受けてG2を訪ねた。G2の反応は鈍かった。協力的ではなかった。松田は怒った。「新橋をソビエトの奴らに取られるなと言ったのは誰だ!なぜ俺が、わざわざ8月27日の大森海岸米軍捕虜収容所奪回保護の作戦に乗って、海兵隊と共に日本へ上陸し、新橋へ潜伏したのか?その経緯をよもや忘れたとは言わせないぞ!」と。
しかしG2は肩を竦めるだけだった。
ここでも松田の思いは通らなかった。

たしかに、松田が新橋へ送り込まれたのは、台湾勢力を隠れ蓑にしたNKVDが、連合軍が拠点を置く予定の日比谷・丸の内の至近距離に牙城を置くことを阻止するためだった。しかし・・送り込んでみると、メキメキと頭角を現した松田は、当初目的以上の仕事をしてしまった。あまりにも目立つ存在になってしまった。そうなると、松田の影にG2が控えていることが露見すると、大変な事態になる・・G2はそれを危惧し、12月に入ってから松田へのサポートは少しずつ控えるようになっていた。松田はそのことでイラついていたのだ。
ところが芳子にクーリエ話が来ると、交換条件としていとも簡単に希望していた書類が届いた。支援も従来に戻った。もちろん、その経緯は小田部には話していない。大喜びする小田部の前で、いまいち表情が冴えない松田の態度に、小田部は気が付かなかった。

豹変した区役所へ、松田義一はGHQ指令書を持って井出区長を訪ねた。そして井出区長に、個人で会社を立ち上げてもらいたいと申し入れをした。
「区長の作られた会社と、私らの会社”合資新生社”で、共同事業として”新橋新生マーケットを立ち上げたいのです。設計施工、資材の調達、もちろん資金繰りも、すべて私どもの”合資新生社”で行います。」松田は言った。
井出区長は、松田の影にGHQを見ると、彼の話を素直に請けて「新橋商事」という会社をすぐさま立ち上げてくれた。
2月にはいって、話はGHQ指令書のおかげで、とんとん拍子に進み始めていたのである。
施工工事は3月から開始と決まった。

その日、松田芳子(浜田幸枝)は、新橋ヤミ市の真ん中にある松田組事務所にいた。昼間の彼女の主たる業務は両替である。出店者は、客の持ち込んだ高額紙幣を事務所へ持ち込んで、小額紙幣に交換してもらっていた。その日、午前中は誰も交換に来なかったが、午後になると突然、交換して欲しいという者が増えたのである。小額紙幣はそれなりにストックしていたが、それが見る間に無くなっていった。
芳子は、区役所から戻った松田にすぐさま相談した。
「今日は新札交換の日だったな。」松田は言った。
「はい。そうです。いま、昼休みと云うことで両替をお断りしていますが、このままでは午後の両替ができません。」芳子は答えた。
「わかった、電話で確認してみる」そういうと、松田は事務所の奥にある自分の部屋に入った。聞こえてくる電話の会話は英語だった。
しばらくすると、芳子のところへ戻った。
「一時間後、新円と5円札を多量にもって来るそうだ。それで対応を再開してくれ。」松田が言った。芳子が頷いた。そして松田の顔を見つめた。
「銀行へ旧円を持ち込むと、先ず全額預金扱いになるらしい。そしてそこから下ろせるのは100円だけだそうだ。実質的な召し抱えだ。ところが5円以下の小額紙幣はそのまま流通するらしい。それなので、買い物で高額紙幣を使って、5円以下の小額紙幣へ替えてしまおうという客が出てきたということだろう。」
「たいへんですね。」芳子が言った。
「ん。だが商いのチャンスだ。新橋は、小額紙幣で幾らでも釣りをくれると知れ渡れば、売上は倍増どころか天井知らずになるぞ。金は用意できる。だから両替に来た店主には”幾らでも小銭はありますよと、お客様に言ってください”と話してくれ。100%対応する。」
「はい」芳子は頷いた。
しばらくすると米陸軍のジープがジュラルミンの箱を運んできた。芳子は両替を再会した。
すでに事務所の前には店主たちの両替の列が出来ていた。芳子は手際よく対応した。
松田はそれを見届けると、再度事務所を出た。横浜税関ビルへ向かった。

さきほど松田が電話をしたのは明治生命会館G2オフィスだった。そのとき担当官が本日中に横浜税関ビルのUSAFEE/US Army Forces in Far East,米極東陸軍・分室を訪ねるようにと指示したのだ。ベンジャミン・ホロヴィッツ大佐を訪ねるようにと。
松田は、その名前を知らなかった。しかしMIS/Military Intelligence Service,アメリカ陸軍情報部室にいると言われて、なにかあるな・・と思った。MISは昨年、明治生命会館に事務所を移したはずだ。そのときから実質的にG2ウイロビー監視下へ入った。横浜税関ビルの別室に呼ぶと言うことは、ようするにG2の連中に見られたくないということか。何れにしてもロクな話じゃないだろう。松田はそう思った。

MIS横浜税関別室は3階にあった。かなり大きく場所を取っていた。受付の兵士に松田が名乗ると、出てきた秘書官がホロヴィッツ大佐の部屋へ案内してくれた。入ると金髪の大男がテーブルに着いていた。金髪のユダヤ人。松田は酸っぱい唾がでたような気分になった。
「座ってくれ。Kappa。」ホロヴィッツ大佐は書類を見ながら、松田を見ないまま言った。
「Kappaではない。俺は松田義一だ。」松田は立ったまま言った。
「なるほど・・わかった。」ホロヴィッツ大佐は顔を上げると松田を見つめた。「座ってくれ。喧嘩するために呼んだ訳じゃない。」
松田は黙って椅子に着いた。
「これからしばらくの間、新札と小額紙幣は君が必要とするだけ、我々が送る。もちろん旧札と交換というのが条件だが。」ホロヴィッツ大佐が言った。
松田は黙ったまま、ホロヴィッツ大佐を見つめた。
「your welcome。Mr.Matuda。」返事をしない松田を、そう皮肉った。そして続けた。
「しかしもし君が、手持ちの旧札以上に新札が必要ならば。我々は日本国債となら額面で新札と交換する。どうだろうか?」
「俺は、日本国債なんぞ持っていない。」松田は即答した。
ホロヴィッツ大佐は持っていた書類を投げるように松田の前に出した。
「それは全国の日本国債を大量に所持する人物の一覧だ。後ろに付いている等級だが、最初の数字は、今回実施される財産税で同人物が何%取り上げられるかだ。その後のアルファベットは、国債を同人物がヤミでも何でも国債を現金化したがるかについての評価だ。Aは必ず売る、だ。どうだ、役に立つ書類だろ。」ホロヴィッツ大佐はニヤリと笑った。
「こんなもんを渡されても、俺には買い集める時間もルートもない。」松田は無愛想に応えた。
「ルートはある。君の所には旧日本海軍にへばりついて商売していた男がいる。あいつなら出来る。話してみたまえ、あいつなら目を輝かせてこの話に乗る。」ホロヴィッツ大佐が再度ニヤリと笑った。
松田は書類を手にしたまま黙ってホロヴィッツ大佐を見つめた。

その同時刻ごろ。小田部健吉が新橋の松田組事務所へ飛び込んできた。
「松田さんはいらっしゃるが?」
「いえ、松田は出ております。」両替の手を休めないまま芳子が言った。
小田部は、芳子の横に積んであるジュラルミンの箱を見ると、笑いながら言った。
「やっぱりな。さすがは松田さんだ。」そういうと、応接椅子にどっかりと座った。
「奥さん。おらのたがいでる旧札も面倒見でもらいでえんだが。」
「私の一存では出来ません。松田の許可を取ってください。」芳子は振りかえもせずに言った。小田部は豪胆に笑った。
「まあ、おがでえごって。仕方ね、松田さんが帰るまで此処で待ぢますわ。」
芳子は応えなかった。
難しい顔をした松田義一が戻って来たのは、それから1時間ほど後だった。二人はそのまま奥の部屋に入った。しばらくして出てくると、小田部は満面の笑みを浮かべていた。松田は相変わらず硬い表情のままだった。
「奥さん。いやはや、松田さんはほんてんすごいひとだ。松田さんのぢがらで新生マーケットは、あっていうまにビルヂングになりますぞ!」小田部が言った。「ありがでえ、ありがでえ」小田部がはしゃいだ。
「どちらにしろ、今の話は別にして明日は井出区長と話し合いましょう。俺としても、今回の両替のことは、区長の耳に入れておきたい。」松田は笑わないまま言った。
「わがりますた。明日はあせえぢばんにぎます。」そう言うと、羽根でも生えたように小田部は事務所を出て行った。松田はその後ろ姿を暫く見つめていた。

その晩の夕餉。芳子が言った。
「なにか、また嫌な交換条件ですか?」
「ん。煙たい話だ。MISが日本国債を買い漁れと言ってきた。それを奴らが額面で引き取るそうだ。」
「日本国債?」
「ん。いま、新円で買い取れば間違いなく二束三文だ。それをMISは額面で買い取る。支払いは新円だ。」
「どうしてですか?」
「簡単な理由は、戦時利得者を壊滅させることだろう。MISが国債保有者の一覧を我々に渡した。見ると、連らなってる名前は、そんな奴らばかりだった。復興後、息を吹き返さないように、そんな連中が所持している国債を、窮乏に乗じて底値で搾り取れということなんだろうが・・しかし。それだけじゃないだろう。」
「というと?」
「わからん、まだ見えない。しかし、その口車に乗って動けば、いずれ見える。」
「口車・・乗るのですか?」
「ん。相当高額な利益になる。新生マーケットには、猛烈な力になる。」
「・・そうですか・・」芳子は、言葉を止めた。
嫌な予感が走ったのだ。恙虫が・・

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました