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ボルドーれきし ものがたり/3-5"ローマ軍について"

ローマとは何かということについて大雑把な理解するために、ローマ軍の構造について書いてみたい。
軍の構造は、その民族の気質を見事に反映するものだからだ。
ローマ軍は、ローマの身分制度の延長線にある。
①元老院(貴族)②騎士③一般市民④半市民(解放奴隷/属州民)⑤奴隷
という構造である。
当初ローマ軍は常設されていなかった。諍いがあると②③から徴兵が行われ、其々の戦いに赴いた。軍役は市民にのみ有り、④⑤にはなかった。 
しかしローマが大きくなると、騎士と警備隊だけでは治安の維持が不可能になり、なし崩し的に常備軍が出来上がっていった。ここにも大きくエトルリア人の影響を僕は見てしまう。 
常備軍は②③レジオlegioと④コホースcohorsで構成された。 
②騎士は、兜・鎧・円形盾・青銅の剣を持つ。③は鎧の替わりに胸当てを付け、長い槍を手にした。(ローマ兵が投げ槍をもつのはサムニウムから)④は防具を装備せず棍棒が支給された

余談だが、古代中国も同じように最下層の人々が戦場では最前線に立った。そして命懸けで戦った。生き残ったものには報償として農地が与えられた。ここから一所懸命(ひとつの所に命を懸ける)という言葉が生まれた。一生懸命ではない・・ちなみに楚の軍は、最前線に女子供が立った。彼らは顔を塗りたくり、そして髪を振り乱しながら素手で鬼女になって敵軍に向かった。敵軍はこの無徒手な女子供を殺しまくった末に正規軍に立ち向かわなければならなかったため、戦意が大きく損なわれたという。楚軍が無敵だった理由は之だと古代の史家は云う。 
ローマにおいて・・ひと度戦争が始まると、最前線に立つのは④である。彼らもまた報償を求めて一所懸命に戦う。その後ろに③が付く。そして三列目が②である。

最小単位は分隊contbermiumで②③8名によって作られていた。これが10集まって百人隊centurias(80名)。これが2集まって中隊manipulus(160名)。これが3集まって大隊cohors(480名)。
ローマ軍は大隊が10集まって軍団legioとなり、総数は5120人だった。 
軍の統制は厳格で、命令系統は迅速だった。
断続的だが、繰り返されるガリアから侵攻が、こうしたローマ軍の体制を生み出して行ったのだろう。 

B.C.302年、アルプス以北のガリア人と以南のガリア人の混成部隊による最大侵攻が起きる。この略奪軍には(第三次サムニウム戦争期は)サムニウム、エトルリア、ウンブリアも参加し、ローマを蚕食したという。しかしこの戦いが大きなターニングポイントだったようだ。
B.C.283、エトルリアと連合したガリア/ボイイ族が侵攻してくるが、ローマはこれをウァディモ湖周辺で破り、その勢力を押し返している。以降、戦いはガリアがローマに仕掛けるものから、ローマがガリアに仕掛けるものに反転した。その時期はローマに破竹の勢いがあった。アドリア海における対マグナ・グラエキア、第一次ポエニ戦争によって、その領地拡大を拡大している。 
カルタゴとの戦争(第二次ポエニ戦争)終了後(B.C.201)、ローマはアルプス以南のガリア人を完全制圧し、此処を属州としている。その属州の総督になったのが若きガイウス・ユリウス・カエサルGaius Iulius Caesarだった。B.C.58年である。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました