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ブルーズの確立と拡散#02/ブルーズの起源と構造

ブルーズとは何かについて語る人は多い。其々が一家言あり、滔々と自説を開陳する。しかし「ではブルーズの原型は何か? 19世紀半ばミシシッピー以西にブルーズが立ち上がる前に、お手本になった祖形は何処に有るのか?」と質問すると、大半の有識者は口ごもってしまう。ブルーズより前に、ブルーズによく似た音楽は、世界中の何処を探しても無いのだ。
よく「ブルースは西アフリカから奴隷として連れてこられた黒人たちの持っていた音楽と、西洋音楽が融和して出来たもの」という話を聞くが、残念ながらアフリカの何処を探してもブルースの原型となるような民族音楽は存在しない。なのでブルーズの原初を訪ねようとすると、ミシシッピー以西の荒野を只々彷徨うことにことになる。しかたなくBluesを語る識者たちは、その出自ではなく、その特質を語ることになる。

ではBluesとは何か?
リロイ・ジョーンズはその著書「ブルースピープル」の中でこう言う。
①ブルースとは黒人が初めて完璧なアメリカ語で作った音楽である。
②ブルースとは黒人が初めてソロで歌った歌である。
③ブルースとは黒人が初めて伴奏を伴って歌った歌である。
これはかなり示唆に富んだ知見である。

たしかにBluesは英語で唄われる。ブルーズシンガーは英語で韻を踏む。彼らは自分たち特有の言い回し、隠喩、アクセントをメロディと歌詞に乗せる。しかしそれは全て英語だ。つまりBluesは英語で唄うために作られた音楽なのである。
そしてブルーズシンガーは一人で唄う。複数で合唱することはないので、シンコペーションは自由気ままで、ときには小節や拍子さえ無視する。
その際、ブルースシンガーの多くは伴奏用に自分でギターを弾く。黒人特有の楽器バンジョーではない。ギターだ。女性歌手の場合、伴奏に楽隊が付くが、それでも唄いまわしは自由で、変幻自在に変化する。
・・こうみると、たしかにリロイ・ジョーンズの言う通り、Bluesは英語のための音楽であり、独りで唄うための音楽だ。これは初期ブルースの大きな特徴だと云えよう。

さて。このBLuesだが、原則的にブルーノートBluenoteと呼ばれている短調でも長調でもない特異な旋法上で唄われる。これは教会旋法のドリアンを♭5にしたものに似ている。してみると、この辺りが祖形か?と思ってしまうのだが、ドリアン♭5の旋法Scaleで出来ている当時の賛美歌は今のところ発見されていない。
現在のメソジスト系の黒人教会で行われているミサ。牧師の説教はまさにゴスペルそのものだが、それが定型化したのは、20世紀に入ってからである。黒人用の教会も当初、牧師は白人で、唄われる賛美歌もごく普通の単旋律で、これをユニゾンで唄っていたのだ。おそらくだがこうしたゴスペルスタイルは、Bluesが成立していく過程を少し遅れて後追いかけしたのではないか・・僕はそう思ってしまう。

このブルーズで使用される旋法ブルーノートを見てると、基本は5つの音でできていることに気づく。ハ長調で云うならば、ドCとミE♭とソG♭とラA、そしてシB♭である。
1オクターブの中の5つの音だけを使っているのでペンタトニックpentatonicと呼ぶ。

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民族音楽の多くに、このペンタトニック構造を見ることができる。
たとえば日本の演歌はファFとシBがない5音。沖縄はレDとラAがない5音。スコットランド民謡はファFとシBがない5音。ガムラン音階はドCとレDbとミEbとソG、ラAb。半音なしで全て全音の5つの音列はタイランドをほうふつとさせる。

WC.ハンディがブルーズに出会ったとき。1903年。すでにこのペンタトニックな構造をしたブルーズが確立しており、一つのスタイルとして様々な音楽家に演奏されていた。マ・レーニーがBluesに出会ったのもこの時期なので、ミシシッピー以西の何れかを発信地として登場し、南北戦争1865年以降の30年あまりで様式化したことは間違いないだろう。
僕はその主たる発信地として、大陸横断鉄道の敷設工事現場を見てしまう。

Bluesは、黒人だけの手で作られた音楽ではない。もし異人種が入りこまなかったら欧州の楽器であるギターには出会わなかっただろう。その奏法も知らなかったろう。音楽形式がAAB形式と云うアイルランド民謡の形式を取らなかったろう。ブルーノートがペンタトニックとして成立しなかったろう。僕はそう思ってしまう。僕はBluesの中に、無数の欧州からの移民たちの臭いを感じてしまうのだ。
Bluesは異人種文化の混合として生まれてきたものではないか?

当時、リアルタイムで僕と同じような印象をもった作曲家がいた。アントン・ドヴォルザークである。
彼は1891年春にジャネット・サーバー夫人から、彼女が主催するニューヨーク・ナショナル音楽院の院長職を依頼され、そのため翌年渡米している。しかし強度のホームシックにかかり、1895年早々に帰国してしまうが、そのとき母国で「どんな歌がアメリカにはあり、どんな歌に魅了されましたか」というインタビューを受けた。彼はこう答えている。
「たとえばある人が未知の国にいくみじめな境遇に陥り、無感覚になっていたとして、聞こえてくるどのようなメロディーが路上の彼を立ち止まらせ、望郷の念をかきたてるだろうか。
そのような曲の数は限られているにちがいない。それらの中で最も美しく、しかも最も効果的な曲は、私の考えでは、いわゆる大農場のメロディーと奴隷の歌だったように思う。
それらのすべては聞きなれない微妙な和声で飾られていたが、その中で私が発見したものはスコットランドとアイルランドの歌以外のなにものでもなかった。」こう言い切っているのだ。
ドヴォルザークは、黒人たちの音楽の中に英国民族音楽の片鱗を目敏く観ているのである。


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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました