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小説特殊慰安施設協会

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#特殊慰安施設協会

小説特殊慰安施設協会#45/クリスマス

R.A.A.のダンサー寮だった宮川は、築地警察のすぐ裏手にある。三吉橋を渡れば小美世の家までは…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#44/焦燥

林譲は、新橋の友人の所へ間借りしていた。着替えは、家人が荻窪の彼の自宅から毎日運んでくれ…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#43/オアシス・オフ・ギンザ

もちろん、対GHQへの窓口としての仕事もある。宮沢理事長は、こうした仕事は全て林譲に回して…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#41/餓えの冬と戦うサムズ大佐#02

9月17日・月曜日、小雨の中、GHQ公衆衛生局は横浜税関ビルから大手町農林省ビルへ移転した。サ…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#40/餓えの冬と戦うサムズ大佐

1945年の冬。日本は最悪の冬を迎えていた。 無理な戦線維持のための資材・物資の確保は、日本…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#40/千疋屋の闇

林田係長は日本橋に麻雀屋を開いていた。ボーイ間のトラブルを回避するために、林田の指示でボ…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#39/千疋屋の闇

サムズ大佐は娼妓側にもペニシリンを供与することを決定すると、同時に週一回の性病検査実施を全ての米兵が出入りする施設へ義務付けた。娼妓だけではない。ダンサーも事務員も全てが対象である。R.A.A.では、慰安部もキャバレー部も、本部事務所の女子社員もその対象になった。協会としては何の反論もできなかった。 ダンサー寮で生活をするようになっていた千鶴子も、毎週検査をを受けた。その検査が始まると、ダンサーたちの間にも多数の罹患者たちがいたことが発覚した。 林譲は驚愕した。そして千鶴

小説特殊慰安施設協会#38/ペニシリンの奇跡

その太平洋戦における米軍公衆衛生局PH&Wの責任者はクロフォード・サムズ大佐だった。 彼は…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#37/最初の冬

敗戦後、最初の冬が始まっていた。深刻な食糧不足が各地で表面化し始めていた。その上この年は…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#36/オフリミットの嵐と潮目

商売としてみると、R.A.A.の売り上げは順調だった。慰安部もキャバレー部も、連日満員で収益は…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#35/オフリミットの嵐と潮目

10月に入ると、都内・都内近郊だけで40数か所あったR.A.A.慰安部の施設は、ほぼ毎日数か所がGH…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#34/東京宝塚劇場

役員室は、日比谷公園に面していた。女子社員が、大きな手拭とお茶を運んできた。小美世はお礼…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#33/東京宝塚劇場

泰明小学校前の道は「みゆき通り」と云う。 この道は、明治天皇が築地にあった海軍兵学校、海…

勝鬨美樹
3年前
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小説特殊慰安施設協会#32/泰明小学校

東京宝塚劇場は1944年3月に日本軍へ接収、落下傘工場として利用された。工員はこの劇場に出演していた踊り子たちだった。このビルで風船爆弾が作られたことを語る者は少ない。 1945年、8月15日。同ビルのなし崩し的な返還を受けると、東宝本社は8月27日に劇場早期再開を決意し、9月18日に終戦後最初の演目をかけると決定した。演目は「東宝芸能祭り」である。 大道具、小道具、楽隊、舞台装置もママならない。しかし、やる!と本社は決意したのである。 出演者はつい先月まで落下傘を作