見出し画像

子供の日を迎えて想うこと

私の記憶に残る子供の日の風景は、自転車に乗って 坂を上ってくる祖父の姿です
私の家は 祖父の家から徒歩30分ほどの坂の上にありました。

当時祖父は 公立小学校の校長を務めていました。地元でも信頼されていたと きいています。その祖父にとって 私は 長女の第一子、弟は初めての男の子の孫。
さぞ すくすく育て~と心から思ったと思います。

鯉のぼりを 人が手で立てるの見た事ありますか?

祖父は5Mほどの丸太を背中に括り付け、籠には畳んだ鯉のぼりと 先頭につける矢車の飾りと、ロープをいれて、坂を自転車で上がってきました。( 当時 電動自転車はありません。)

自営を営んでいた我が家につくと、外来用の駐車場の一角に穴を掘って丸太を立て、確か倒れないように補強しながら、鯉のぼりを 空に泳がせてくれました。

2階のダイニングからみると ちょうどよい高さに鯉のぼりが泳いでいて、いつも自慢の鯉のぼりでした。町内でも丸太を背負って自転車で坂を上る姿の祖父は 一種の名物だったようでした。

私にとって子供の日の思い出は 鯉のぼりを空に泳がせてくれる祖父と、粽(ちまき)を手作りしてくれる祖母の記憶です。
家の中に兜があった記憶はありません。 母が 兜の人形など飾っていたのかもしれませんが、すっかり記憶から抜けています。

先日 私の夫(長男:昭和30年生まれ)に尋ねましたら、彼の祖父も庭に穴を掘って丸太を立てて 毎年鯉のぼりを 空に泳がせてくれたそうです。この時代は みんなそうだったのかもしれません。

初孫だった私♪

昭和40年代(1965年)のどかな時代。祖父はあの頃50歳前だったのかな?
父よりも華奢で ほっそりした体形の祖父でした。磯野家の波平さんのお顔を細長くした感じ。叔父や叔母にも、『 あなたが生まれて そりゃぁ 嬉しそうだったわよ!』とよく言われたものでした。初孫はお得ですね ♪ 私が小学校に上がった際は、本棚と本棚いっぱいの児童図書を贈ってくれました。これをいうと すごいお金持ちのようですが、ぜんぜんそんなことはなく、平屋の小さな家に住んで 車も所持していませんでした。母に言わせると 怒ると怖い祖父だったそうですが、私には 無口で静かな祖父でした。

祖父母の家の思い出

私は 私立の小学校に通っていました。土日 近所に遊ぶ友達がいないのか、自営業を営んでいる両親は 弟二人の世話だけでも大変だったのか、私は小学校の頃、土曜の夜は必ず祖父母の家(母の実家)に、泊まりに行っていました。日曜の朝、ニワトリの鳴き声で目を覚まします。夏は そうとう早い時間だったみたいで、祖母が 布団の中で なぞなぞを出すなど 話相手をしてくれました。
日曜の夜に 母が車で迎えに来てくれます。当時まだ嫁いでいない母の妹や学生の弟が居ました。実家で お茶を飲みながらおしゃべりしていく時間は、嫁ぎ先で姑、小姑と同居の母には 唯一 ひと息つける時間だったのだと、今は理解できます。

昭和天皇とほぼ同年齢だった祖父は 他界して30年以上経ちますが、60歳の私の胸に そして多分他の孫( 私のいとこ23人!)の記憶にも 残っていると思います。

祖父の死後 何年も経ってから 祖父から孫全員に手紙が届きました。それは生前 祖父がでかけたつくば万博のポストカプセル郵便 に15年後の孫達23人全員に手紙を投函してくれたものでした。15年後の孫の生活がどんぴしゃり当たっていて、両親と私の弟2人に妹、とても驚いたことを覚えています。

*ポストカプセル郵便は、茨城県つくば市で開催されていた『科学万博つくば'85』で、自分あてに送る趣旨のもの。 当時その科学博の会場では、専用ポストに手紙やハガキを投函すると、16年後の2001年(21世紀になって初めての元旦)に配達してくれるという「ポストカプセル2001」という企画でした。祖父は自分たちは16年後は 生きていないと思ったのでしょうね。

↓ 祖父の名前を検索したら、こんな記事が出てきました♬

長々書いてしまいました。最後までお読みいただきありがとうございます。


この記事が参加している募集

おじいちゃんおばあちゃんへ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?