これ、ネパールのポカラからチトワンに向かってたときの休憩で食った飯。
海外に行くと、ぱっと見で珍しいものがあったり、見た目から想像できない味だったりすることがあって面白い。
この辺はこんな感じで色のついた米が多かった。
さて今日は死ぬことについて考えてみたい。
つい先日、はちやま先生から「みかみ先生って、時々死にたくなるんでしょ?」と言われてハッとした。
なぜなら、子供の時から時々「死んでみようかなあ。」みたいな衝動があったのだが、最近、それを全く考えたことがないことに気がついたのである。
たぶん、50歳くらいまでは時々思ってたはずなのに、最近全く考えていなかった。
なんの変化なのだろうか?
老化か?
昨日、ふとガンジス川のことを考えた。
ガンジス川で有名なバラナシというところに、多くのインド人が死ににくるらしい。
死んだら、そこで焼いてもらってガンジス川に流してもらうためだ。
ネパールでも同じような火葬場(焚き火っぽい感じの)を目にした。
またベトナムのある民族は、死んだら死体を川に流すらしいのだが、罪人は沼に捨てるらしい。
日本は火葬。
チベットの一部では今も鳥葬が残ってるらしい。
葬式も全然違う。
ガーナなんか踊って死者を祝福するらしいもんね。
死に方も、死んだ後もいろいろなやり方があるわけね。
何が言いたいか。
これは俺個人の考えだから、宗教批判しようとかたてつこうとか一切ない。
俺の考え方だ。
普通死んだら、お坊さんにお経をあげてもらうだろ?
俺、あれって歌みたいに聞こえるんだよなあ。
歌を歌うことの意味は何があるんだろうって考えてしまうんだよなあ。
あと位牌。
もはや、死者となんの関係もないように見える。
そして、戒名。
死んだ後の名前くらい自分でつけたいって思う。
まあ、俺なら例えば「幸福人間酒我愛貴人」とかにするかなあ。
とにかく墓に入るというつまらないことはしたくない。
葬式もやってもらわなくていい。
理想的には、
死ぬだろ?
葬儀屋に電話して、火葬場に運んでもらう手配してもらう。
通夜とかいらない。
火葬場に連れて行ってもらったら、サインしてすぐに焼いてもらう。
そしたらみんなにすぐに帰ってもらって、風呂でも入ってもらいたい。
焼き終わった遺骨は、職員の人にほうきかなんかで掃き集められて、共同墓地か埋立地に埋葬。
終了。
葬式の時に、わざわざみんなに集まってもらって、泣いてもらう必要は一切ないし。
わざわざ死んだ後の顔を「おお、こいつ死んでるなあ。」とか見られても困るし。
その後、何回忌とか言って、みんなの仕事を止めることにも意味がわからない。
俺はその人の思い出の中にいればいいのであって、気色悪い墓なんかに入れられてなめくじや雑草との戦いなんかしたくない。
というわけで、俺は生きてる間はずっとハッピーだし、ハッピーじゃなくなったら俺は終了。
その後はさっさと処理して、終わりだ。
あとは俺の動画の下にみんなが、「先生ありがとう。」とか「先生のおかげで人生変わりました。」とか書いてくれて永遠に残してくれりゃあいい。
おっ、今度、死後用の動画でも撮っとこうかな。
ま、とりあえず死ぬ予定はないので、まだまだやるぜ。
死者を冒涜したり、他人の葬式やお墓を批判しているわけではないので、悪くとらないでね。
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