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チェルフィッチュの「消しゴム山」に泣く

事前にまったく情報を入れずに見るようにしているのが、チェルフィッチュの演劇だ。「消しゴム山」は、「モノの演劇」だという。

以下、ホームページより。

いま・ここにいる人間のためだけではない演劇は可能か?人とモノが主従関係ではなく、限りなくフラットな関係性で存在するような世界を演劇によって生み出すことはできるのだろうか?
 東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市では、失われた住民の暮らしを取り戻すべく、津波被害を防ぐ高台の造成工事が行われている。もとの地面から嵩上げされる高さは10メートル以上。そのための土砂は、周辺の山をその原型を留めないほど大きく切り崩すことでまかなわれている。
 岡田利規は、2017年に同地を訪れ、驚異的な速度で人工的に作り変えられる風景を目の当たりにしたことをきっかけに、「人間的尺度」を疑う新作の構想を始めた。

モノが人間について語ったり、モノが自分の置かれている状況を感情的に語ったりするセリフがある。ナレーションが、人間が「荒廃」と呼ぶようなさまを語った時に、グッときた。たとえば、「思いのまま隆起する地面、ツルを伸ばす植物、朽ちて役割から解き放たれた公園の遊具」(正確な引用じゃありません)。泣かせる場面ではないのに、泣けてきた。

震災後、おおくのアーティストが被災や復興を作品にしている。たまたま見た写真家の作品は、被災地の瓦礫の写真を和紙にプリントしたもので、「薄い紙でフラジャイルな感じを表現した」と解説された。この写真家は、震災後の報道を一色に塗りつぶした無常、鎮魂、絆、元気というような「シングルストーリー」の洗練されたバリエーションを作品にしているように思えて、重たい気持ちになった。

アートの目指すものは(アートに期待することは)自由と解放だと思う。復興の風景を見て「そこにものの声が反映されていない」と感じる目線は、「シングルストーリー」のくびきから意識を解き放とうとするアーティストのものだ。舞台上に並ぶモノの声をセリフとして発することは、演劇にしかできないことだ。自分が泣けてきたのは、ずっと心のどこかにあった重たい気持ちと似たような思いを持っていた人がいて、それが作品として目の前に現れたことに、深く安心したからだ。安心しすぎてほとんど嗚咽しそうだったが、神妙に実験演劇に立ち会っているほかの観客を邪魔しないように、必死でこらえた。



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