【6】2011.3.16

※2011.3.11東日本大震災当時のブログに加筆修正を加えたもの。

2011.3.16朝1

起きてみると積雪。(賞味期限が数年前に切れたパンミックスを発見したので、それを焼いた)パンが朝食。ちょっと不安だったが大丈夫だった。パンを焼くのと、ゴハンを炊くのと、どっちが電気の消費量が少ないのか昨晩悩んで、結局パンを焼いた。米の消費量を抑えるため。後から、やはりオーブンは電気を使うんじゃないだろうかと反省。

旦那はガソリンスタンドに行くために朝の6時に家を出たが、結局入れられなかったとのこと。ガソリンスタンド、双方向に50台くらいずつ並んでいたと聞いて驚く。ここ数日、朝はガソリンスタンドの開店待ちの行列が酷い。(昼に会社の人に「ガソリンスタンドに並んでいるうちにガス欠寸前でどうしたらいいか分からない」という友達からのメールが入る…。こういう話が少なくない)

ガソリン不足は深刻すぎる。けれど救援物資を運ぶガソリンもないのだと聞くと、そっちに回して欲しいと思う。それでもガソリンがなければ会社には行けない。会社に行きたくても手段がないとして、その場合でも有給になるんだろうか。ここは交通の便が悪く、会社までバスで行くのは難しいうえに、ダイヤも変則的になっている。(行けるが遅刻。帰りも早退でなければ難しいかもしれない)朝晩以外は運休という衝撃の運行状況。一日か二日休むのは大丈夫だ。しかし長期となると難しい。早い人は朝の4時からガソリンスタンドの開店を待っていたとのこと。

私は、パニック障害を患っている。トンネルや、渋滞時の運転は今も時折発作を引き起こす。見た目には分からない。普通に運転も出来る。ただ内心「どうしようどうしよう」と思う。そのため長時間並ぶのは避けたいが、どうしたらいいのか分からない。(あまり正しくない説明だが、そういう内容の記事ではないので省略)

地震のあと二日ほど薬を飲まなかったせいか体調が悪化しているため、ガソリンがなくなるまで答えは出さないで置こうと思う。通勤ルートに住んでいる会社のひとと、乗り合わせて出勤する話を始める。これも答えは保留にしてもらった。

今朝ついにホームタンクの灯油残量をチェックした。しばらく給油に来ていないことに気がついていたが怖くて見ていなかった。雪を乗り越えて見に行くと、案の定半分以下で、途方に暮れる。うちはボイラーなので、暖房と風呂は灯油がないとアウト。配達してくれている会社は本社が津波被害にあっている。午後に電話すると「順番に回りますから、今週末か来週頭にはいけるかもしれません。51リットルしか入れられないですけど」と言われる。津波によるダメージが大きい地域で停電が続いているなか電話応対してくれていたのだった。反射板のストーブを使えば寒さは凌げるし、毎日風呂に入らなくても大丈夫とは思う。まだ朝はマイナス3度という日もあるなかで、灯油切れすることを不安に感じた。

家を出て国道に出ようとしたところ、大渋滞。ガソリンが、と思いながら引きかえし農道へ。路肩に車が落ちている。スリップした模様。運転手は救助を求めているのか電話していた。車を止めようか悩んで、カーブなので諦めた。申し訳なく思った。

暖房の温度が下がるということで私服出社したのに、それでも寒い。温度調整と聞いていたが実際には15時前に、暖房自体がオフに。明日は更に厚着をしなくては。


2011.3.16出社後~帰宅

書くのを忘れる前にお米の在庫について。スーパーにはなくても、小さなお米屋さんにはあるとのこと。またスーパーの商品についても、「商品が入荷するのは朝ではないので、早く来なくても買える」と聞く。要は入荷とのタイミング。もちろん仕事帰りには在庫なくなっているのだが、買えないわけじゃないと聞くだけで安心。

会社の人から「仙台にいる子供と連絡が取れない」と聞いていたのだが、そのかたから朝に内線が入る。連絡取れたという知らせだった。良かったね、良かったね、と何度も何度も言った。嬉しかった。そういう状況でも(それを黙って)みんな仕事を続けている。(※2020年追記:この話をしてくれたのは50代後半の役職がついていた人だった。ものすごく短気で、揉めたことも多々あったけれど、何でも私に相談してくる人だった。わざわざ教えてくれたのがうれしかったのを読み返して思い出している)

何度か余震。

エレベーターに乗らないようにしている。が、普段愛用していたために、気を抜くと乗ってしまう。15時半ごろ大きな余震。直前にエレベーターに乗っていたことに冷や汗。仕事をしていると、笑ったり、話したり出来て気が紛れる。でもみんな物音や振動に敏感になっている。15時半の余震では動くことできず。震度3だった。

地震のあと、土日休んで月曜日出社してみたら、階段に崩れた壁のカケラがたくさんあった。今もあちこちにひびなどが見えるが、見ないようにしている。見ると怖い。

前の晩に、友達からfacebookのイベントの案内が来ていた。泣けた。
MAN UP FOR JAPANというイベント。

もうすぐお給料日のひとが多いでしょうが、日本のために募金しましょう!
(MANは、「ひと」と「1万円」を引っ掛けている)
一万円は大きな金額だけど、でも、という内容。詳しい赤十字への募金方法まで書いてある。すごいな、と思った。参加予定だけど、会社でも義捐金を集めているので、そっちに出すことになるかもしれない。

夕方から雪が強くなる。風も。積もるくらい降った。

あちこちで節電の話が聞こえる。試験的に、業務中のエリアも消灯される。

腹痛が治まらず、赤玉を飲んだ。

帰宅して食事の支度。パソコンをつけて、ブログを見てアクセス数に驚いた。あまりに「身の回りの話」すぎて申し訳ないような気持ち。この近くに身内が住んでいる、という人が多かった模様。(※2020年追記:このときどのくらいアクセスが多かったかというと、当時のブログの総合ランキングで2位か3位くらいだったので、本当にものすごく多かった)

2011.3.16夜

叔父から電話!!!!!!!!!
岩手県に住む叔父とは地震後連絡が取れていなかった。つい二日ほど前までは消息も分からなかった。隣の村から携帯で掛けているとのこと。叔父は、そんな場合じゃないのに、うちの実家や、うちの旦那のお母さんの生家に津波がなかったかを心配してくれてた。電気は復旧したとのことだが相変わらず電話はダメだとのこと。田野畑村は津波の被害にあったため、避難所が設置されている。今は村が提供しているようだが、最初は皆が米を二合ずつ持ち寄っていたそうだ。道路が遮断されて誰もが手持ちの食料で過ごさなければならないときに持ち出しで炊き出しをしていたと聞いて驚く。


地震のときも少し泣いたし、その後も感動したり悲しかったり怖かったりで何度も泣いているけれど、自分でも不思議なくらい「ちょっとしか」泣かなかった。私の被害が少なくて、泣くのが申し訳なくて泣けなかった。でも、叔父からの電話は涙が止まらなくなった。嬉しかった。いとことは何度か話したが、叔父叔母と話せていなかったことに気が付いた。ありがとうと思うと同時に、大切なひとびとをたくさん失った人たちのことを思ったら涙が止まらなかった。

東京に住んでいる叔父の娘にも電話して少し話した。

(たったいま余震。岩手で震度4)

夕食の前にコタツを設置。コタツを置くとだらしなく生活してしまうので、廃止されていたが節電のため。電源いれず、たくさんコタツ布団をかける。雪で寒いため、PCを打つ手が、いまいち動かない。風邪をひくわけには行かないので、夕食後にストーブをつけるが余震で消す。今日は帰宅後もコート着たまま過ごした。

地震後は寝るときも外に出られる格好で寝ている。これは阪神大震災の体験談を参考にしている。靴下も履いたまま。

サンデッキに置いてあった灯油を玄関に移動。そろそろ灯油の盗難などが聞こえてくる時期だと判断したため。うちは何度も庭からモノを盗まれている。残念だけど、盗まれて嫌な思いをする前の対策。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?