ヨガの恩恵のこと2
※ 写真は南インド ポンディシェリーで宿泊したホテル(2012年)
生徒さんから聞かれて、改めて考えてみた私にとってのヨガの恩恵をnoteしたのがこちら。
具体的に何かを改善する希望でヨガをしてきたわけではなかったので、その恩恵を具体的にまとめるのは難しい。
ヨガは私の生き方であり生きる上で必要なもの。
強いて言うなら、今の生き方にたどり着いて渇望を感じながら何かを得ようとしなくなったことが最大の恩恵だ。
そこに至るまでには日々の練習と、ピュアで混じりけなしのヨーガ哲学が必要だった。
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人生の方向性を知ることはじぶんを知ることで、そのためには知性が必要。これはインド哲学すべての学派に通じる。それがヴェーダなのだ。
ヨガには知性を得るために、マインドの準備としてアーサナやプラーナーヤーマがある。したがって無自覚にストレッチ目的だったりシェイプアップ目的でヨガをしていたとしても、ピュアな本当のじぶんを垣間見たりすることがある。
と同時に、表面的にかたちだけアーサナやプラーナーヤーマをなぞるのでは限界があるだろうとも経験的に感ずるところだ。ヴェーダの一派であるヨーガだからこその、マインドをクリアにするための哲学に則った練習というものがある。(ヴェーダではないヨガもある)
一方で、哲学だけを学んでいても難しいように思う。なぜならマインド(思考・気分・感情)には汚れがあるからだ。これがヨーガ哲学がみなす私たちで、そんな曇った思考では正しい理解に到達できない。気分や感情にも振り回される。
だからこその、日々の(哲学に則った)練習なのだ。
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最近の傾向として、ヨガが何かにいいような気がしてきちんとヨガをやってみたいとおっしゃって足を運んでくださる生徒さんが多い。
ヨガがどんなふうに私たちに必要で、どんな利点があるのか。それはヨーガ哲学を通してきっちり説明できる。
そして、そのための理にかなった練習の仕方もお伝えできるから、ぜひ足を運んでいただきたいと思っている。
ただただマインドをクリアにする努力/タパを怠らないなら、人生の方向性(どうなりたいのか、どうしたいのか、どうありたいのか)はおのずと見えてくる。
そして、クリアになったマインドで哲学を通して内省/スヴァーディヤーヤするなら、さらに見えてくる景色もある。
これらのタパ⇒スヴァーディヤーヤ(ここではイーシュヴァラプラニダーナについては言及しないでおく)の循環を通して、私たちはピュアな本当のじぶんを少しずつ理解していく。意識的にも無意識的にも。
こうして方向性が見えてきて、それを見据え続けているなら、もっとほしがる気持ちは消え失せたり、自然と諦められるようになっている。これがアビヤーサとヴァイラーギャだ。
ただ、これは何もほしがらなくなるという意味ではない。外側由来の欲求に振り回されなくなるということだ。
あれがほしいこれが食べたい、こう見られたいetc.が生きることだと考えるのも自由。そういったことだけに左右される人生ではなく、じぶんの内側からの満足を感じていきたいと考えているのも自由。私たちには選択する自由があるのだ。
ただ、前者は心からの満足は得られないかもしれない。
だって、仏教チックになるけれど、人生を終えて残るものはプルシャだけだから。プルシャ以外のもの(プラクルティ)はプルシャが経験するための道具であることを見失うと、多くのものがただ消費されていくだけのものになってしまうから。
正しく判断するためには知性が必要だとヴェーダは示している。
したがって選択の自由とは、やはり知性によってシフトチェンジされるのだろうと考えている。
Mika(@mikachant)でした。
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