別におかあさんが夜なべしなくたっていいんだよ
先月のことだ。親しい友人2名と、“ADESSO!”(スペインのテノール歌手3人によるユニット)のコンサートに行ってきた。行ってたまげた。
イタリア歌謡の“マンマ”って曲、ご存知ですか?
イタリア歌謡といえば“オーソレミオ”が有名だが、あの曲がイメージさせる青く突き抜けた空と海、燦々と照りつける太陽の明るさそのままで、“マンマ”ではこう歌いあげるのである。
母さん、あなたは僕にとっての最高の歌
あなたは命なんだ
これからは決して一人にさせない
母さん、決して離さない!
踊り出しそうに陽気な伴奏に乗せて“マーンマー!!”と絶唱する歌手を前に、言葉を失うわたし。母の歌といえば「おふくろぉぉさんよぉぉ」の日本人にはこの盛り上がるマンマ感覚はない。
「日本人の母親像って、どうしても“忍耐”とか“犠牲”のイメージが強いのかね〜」「そうかもしれない。それで子ども側も“ありがとう”と一緒に“ごめんね”って思ってる感じ」
コンサートが終わったあと、一緒に行った友人たちとごはんを食べながらそんな話になった。
属する文化やコミュニティが無意識のうちに共有している「○○とは、こういうもの」(○○には例えば「父」「母」「社会人」「息子」「娘」等々が入る)は、ときにわたしたちをジワジワと追い詰める。その「○○像」が性に合っているひとならいいのだ。問題は、本来の個性がそんなタイプではないひと。そのことに本人も気づかぬうちに「○○とは、こういうもの」と思い込み、がんばる。でも、何かつらい。もしくはがんばっても自分にはできなくて、すごくつらい。
日本人の母親像が本当に“忍耐”や“犠牲”だとして、それが苦しいと思うなら、あなたは“それ”に合ってないんだ。だから、やらなくていいんだよ。だって、母の犠牲の上に育てられたと感じながら育つ子どもは、とても苦しいものなんだから。
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