『パラサイト』と新自由主義

こういうときによく植物を育てたいという人がいるけれど、種から植えるのは面倒だったもんで、ロメインレタスの残った芯のところを水につけてみたら、ちゃんと青い芽が出始めた!食べるところまではいかないだろうけれど、毎日成長しているのがわかるので、けっこうおススメ(笑)。

明日は自分が取材受ける側の仕事が一個。前にアポを決めたときは、うちのほうに来てもらえるということだったんだけど、よくよく考えたらこれこそテレワークでいいんじゃないかと気づいて、電話取材に変えてもらう。

あと、ここあんまり見てる人がいないからこそ書くけど、Facebookとか見てると、コロナでいろいろ通常と違うからこそ、変にテンション高くなってて、いろいろそんな中でも必要とされてる自分に酔ってアゲアゲなおじさんがいるのが気になる。いつもよりもテンション高くなっている。まあそれも、そういう反応なのかもしれないので、あんま突っ込むのはやめておこうとは思うけれど、そんなハイテンションの万能感で、ソーシャルディスタンス虫したりして、周りに迷惑かけるようなことはやめてあげてねと思いました…。

あと、なぜか最近ふと気づいたことがあって。今まで「あやうく一生懸命生きるところだった」っていう韓国の本について、二度書評をしてきたんだけど。そんだけ書いてきてたのに、今更かって感じだけど、この本って韓国の新自由主義的な社会からの脱却を書いてたんだなってやっと気づいた。

ただ、あんだけ新自由主義的な国で、そこから降りることは、かなり難しいことではないかと思う。例えば『パラサイト』を見ても、あのソン・ガンホ演じる父親は、洪水の夜、避難場所で息子に、もう新自由主義から降りたいっていうことを吐露したわけでもあって、しかし息子はやっぱりそこから降りられないのが、あのせつない結末である。

と考えると、新自由主義を降りることにすら、格差が関係してくるのではないかと。なぜかというと、降りても生活できない状況があったらどうする?と。だから、誰でも容易に降りられないのではないのではないかとも思ったりした。あの『パラサイト』だって、息子が父親を救いたいと思う限り、新自由主義からは降りられないという結末にみんなどっと疲れたわけで。夢を見ているのにかなわない、でもそれを諦められないというものを見せられてのしんどさがあの映画の後味の悪さだった。そう考えると、彼にまとわありついていた「岩」の存在もはっきりしてくる。

私は自分にも新自由主義的なところがあるのではないかって疑うようにしている。それは、新自由主義的なことに完全に無関係ではいられない世のだからこそ、そこに無関係だと思うことが、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」になってしまいそうで。いや誰だってもうパンがない状態になろうとしている。だからこそ誰かに自己責任をつきつけることは絶対にやってはいけないとも思っている。

これ当たり前のことしか言ってないよね?だけど、パンがないのに、「ケーキ食べればいいじゃない?」っていう人のことをまだかばおうとしている人のいる今の状態ってなんなんだろう。




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