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眼鏡をかけたくない日。


暗いところで本を読んでたから。
と言うと、真面目そうだと思われる。
実際読んでいたのは
分厚い小説ではなく漫画だ。

視力が低下して、眼鏡が必要になったのは
もう十年前のことらしい。

裸眼だと夜の風景が綺麗に見える。
気がする。

見なくて良いものを見ずにいて良い。
そう感じると、
細部が見えないことの怖さよりも
見なくて良いという安心感が勝って
眼鏡をかけずに夜道を歩いて
帰ることがある。

それでいて石につまずくと、
途端に見えないことが、自分が今見えていないことが怖くなって
また眼鏡をかける。

人と接するときは
眼鏡をかけたいなと思うし、
かけなければならないなとも思う。
物理的にも、感覚的にも。

一人でいる時は
眼鏡をかけなくて良いことに気付いてから
かけないことも増えた。
レポートのためとか、本を読むためとか、
物理的にはかけてはいる。

仲の良い友人の前では
友人の顔をしっかりと見たいから、
表情を把握して話したいから、
外す理由もないから、
普段はかけている。
でも、心持ち的には
この友人の前でなら
眼鏡をかけなくて良い
そう思える友人は少なからずいるし、
そう思える友人は大切にしようと思っている。

推しを前にすると
眼鏡なんかじゃなくて、
双眼鏡無しではいられないと思う。
余すこと無く推しを楽しむために。
でも、双眼鏡で見ていた推しとは違うところで
起こった出来事に歓声が上がると
双眼鏡なんかいらない、とも思う。

輪郭を捉えるのも、
ぼやけたまま過ごすのも、
鮮明に向き合うのも、
結局はタイミングが重要なんだなと
最近気付いた。

今日は眼鏡をかけたくない日だった。
理由を探ってみて、
テストにレポートに会議の
怒涛の1日を迎えるのが嫌なんだなと思った。

別に会議のための資料は、
作らなくても良い。
作れとも作った方が良いとも
言われてない。
ただ、自分がそうしたいからしたことで
その塩梅が、
その、"物事との距離感"が近しい人といると
居心地が良いことに
最近気付かされた。

その人と出会うか出会わないかも
結局はタイミングだし、
こんな文章を書いてるけど、
ただあとちょっとで終わるレポートを
やる元気が出なかったから、
やるためにまた眼鏡をかける
ということをしたくなかった。
ってだけで
これだけで900字書けるなら
レポートも書けるだろ……。
この"眼鏡"という題材で小説をかきたくなったので
レポートはやく終わらせないとな

がんばります。
いろんなものを直視したくないけど、
大学三年の夏、
直視しないといけないものも増えて、
見たくないものも見ないといけなくて、
いろんなことがちりつもになって
爆発しそうで体にガタがきて
行動したけど上手くいかなくて
それでも日常は続いていることが
何より憎らしいけど、
そうこうしている間に
日付を越えてから一時間が経とうとしているので
完璧主義を抑えつつ80%ぐらいの満足度で
レポートを終えて、
怒涛の明日に備えて寝ます。


あれ、眼鏡どこやったっけ……。

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