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世界で一番苦手な人Ⅱ

「このままだときっと死ぬまで会うことはない。このまま死に別れても自分は後悔しないだろうか」

私は約20年前から、折に触れ自分にそう尋ねながら生きてきました。そして毎回その自問自答に「後悔しない。このままでいい」そう答え続けました。
薄情な娘です。自分の薄情さに、ドライさに、そら恐ろしくもなりながらも、私はその選択をし続けました。そして、2年前、父は死にました。約20年間一度も会わず、連絡もとらず、父は私の知らないところで、その人生を終えました。

父のことをリアルに人に話したことは、人生でほぼありません。その人となりも、関係性も、私にとってはずっとある意味「恥部」と言えるような部分でした。人との関係を築くのが得意ではなく、芸術家タイプで喜怒哀楽が激しい。自分が正しいと疑わない、下手に頭がよいためたちが悪く、自分の理屈で人を論破しようとする、激情型の人生を送っていた父。幼い頃の私にとっては、怒ると手が付けられない、気性の激しい父はとても怖い存在でした。
また自分の正義を譲れないかたくなな性格は、社会生活ではしばしば人との間に軋轢を生み、けんかをして仕事を辞めてきたことも数知れず。そのたびに家庭が困窮することを繰り返していました。

思春期に家庭内別居のような状態に陥った家庭環境が、私の性格や価値観に与えた影響は大きく、人生における糧にも枷にもなりました。今となっては、そこで育まれたハングリー精神は今の自分を支えているし、反面教師として培ったコミュニケーション能力は、私の大きな個性のひとつです。今の職業を思うに、デザイナーをしていた父の才能を少なからず引き継いでいるようにも思うし、穏やかそうに見えて、一匹狼で喜怒哀楽の激しい自分の性格は父譲りでもあるのだと自覚しています。

与えられたものも奪われたものも、今の自分の個性に結び付いている。普通の家庭人としてのあたたかな愛情表現ができない不器用な父は、それでも父なりの方法できっと私たち娘を愛していたのだろうとも思っています。というか、そう思いたいのだと自己分析しています。究極的には、この世に生を授けてくれたことを父にはただただ感謝しています。
でも、それでも「会わない方が感謝していられる」という関係性が、親子関係が、この世界には存在するのだと、私は思っているのです。

「お父さんが亡くなったらしい」
この知らせは、コロナ禍の2022年8月に飛び込んできました。離婚してはいるけれど、唯一父の親族とつながっている母から、私と姉に伝えられました。親族関係があるのは今は娘である姉と私だけなので、二人で相談しながら父の親族と連絡を取りました。徐々に状況が判明してくると、父はいわゆる「不詳の死」という状態でした。原因は結局分からなかったのですが、自宅のアパートで亡くなっていたのが死後2~3週間経ってから見つかったとのことでした。真夏なので腐敗が激しく、発見されたときの室内は本当にすごい状態だったと後から聞きました。父の実兄に警察から連絡が行き、すべての手続きを終えてくれていて、私たちが知ったのはその手続きがほぼすべて終わった後でした。

連絡をとったところ、お葬式はしないけれど火葬がこれから。父の実兄夫婦だけなので、来るようであればどうぞ、ということでした。私は、心の区切りをつけたいなと思い、最後に会っておこうと火葬に参加することにしました。姉は参加しませんでした。
自分が父に対して、最後なにを思うのか、なんと声をかけるのか、自分で自分を見てみたい、そういう好奇心もあったように思います。父に対する気持ちは本当に複雑で、言葉で表現するのが本当に難しいです。これを愛と呼んでいいのか分からない。今さら憎悪という激しい感情もないけれど、それでも単純に「好き」と言えない、「会いたい」と思えない難しさがあるのです。変な表現ですが、死んでいる父ならば安心、嫌な目に合わずに済む、そんな感情すらあったりするんです。本当に薄情なことを言ってごめんなさい。
ちなみに、姉は長女だったこともあり、父との関わりが、心の距離が私より近いです。たくさん怒られてぶつかって、その分、私よりたぶん父に対する思いが強いのです。火葬に立ち会わなかったのは、薄情なわけではありません。火葬には、立ち会えなかったんです。姉妹でもまた私とは違う、父との距離感の表れだなと思っています。

火葬は真夏のよく晴れた日で、1人で日傘をさして駅から歩いて向かいました。父の実兄に会うのは何十年ぶりだったのでしょう。正直顔も覚えていませんでした。到着したら、とても優しそうな上品なご夫婦が待っていてくれました。なんだか、ホッと安心して涙がこぼれました。父が亡くなったときに残っていた写真つきの身分証、父が祖母に書いた直筆の手紙などを形見分けとしてもらいました。ああ、生きていたんだと、何十年ぶりに父の手触りを感じなんとも言えない気持ちになりました。リアルな存在の気配、この世にちゃんと存在していたんだなと久しぶりに実体ある父を感じました。火葬の時間になり、火葬場に向かいました。遺体の損傷が激しいので、棺のなかは覗けず、そのまま見送りました。
火葬に参加することに決めたときは、正直自分が泣けるのかどうかも分からないなと思っていたのですが、自然と涙がこぼれてきました。「ああ、私泣いてる。本当にお別れだね、バイバイ。お父さん」そんな声を掛けていました。
「自分の生きたいように生きたよね。本当にめちゃくちゃ迷惑かけられた。死ぬ時までみんなにいっぱい迷惑かけてるよ。本当にもう!でも生きたいように生きたよね。よかったね」
最後はこんなことを思いながら火葬される父を見送りました。子どもだった時、父が「自分は45歳で死ぬと思う。野垂れ死にたい」そんなことを言っていたのを思い出しました。子どもそんなこと言うなんて、本当にどんな親だよ!ってその時も思ったし、今も思うけど、それでもそれがわが父なのだと、そういう性格なのだと今は妙に腑に落ちるんです。「本当に野垂れ死ねたじゃん、お父さん、こういうのがよかったんだよね」嫌味でなくそう思いました。本当に父はそう思ってたんだと思うんです。死ぬ間際にはどう思ってたかなんてわからないし、相当苦しい最後だったのかもしれない。今となっては本当に最後の最後のことは分からないけど。それでも、父は生きたいように生きたんだと思うんです。

一人で寂しい最後だったのかもしれない、第一報を聞いたときはそんなことを思って、すごく悲しい気分になってたんです。でも、おじさんに見せてもらった父の直近の写真が思った以上に肌つやがよくって、思ったよりふっくらしてて、安心したんです。全然不幸そうじゃなかった。あれは、やりたい放題やって、豊かではなかったとしても、自由に生きている人の顔でした。
「なんだ、ちゃんと幸せに暮らしてたんだ」
そう思えて本当にほっとしたんです。誰ともつながりをたち、ひとりぼっちだったんじゃないかと思っていたけれど、頻繁ではなくても、ちゃんと自分の家族と連絡を取っていた。ちゃんと家族に迷惑かけまくってた。ひとりぼっちじゃなかった、不幸じゃなかったってこんなに娘を安心させるんだと、初めて知りました。

亡くなってしばらく経って、気づいたことがあります。
「あ、もうあり得ないんだった」
そう突然東京の人込みで思うことがあります。

人込みで、私20年間ずっとこんな心配をしてたんです。「今突然お父さんに街角で会ったらどうしよう」って。人の多い街角で、あり得ないんだったって思って、自分が父のことを思い出していたことに気がつくんです。亡くなって自覚したんです。私が実は頻繁に父のことを思い出していたんだと言うことを。

父がこの20年間、私や姉のことをどれだけ思い出していたかは、今は知る由もありません。でも、きっと私は東京の人込みで自覚しないほど自然に、何度も何度も父を思い出していました。これを愛と呼んでいいのかは分からない。でも、私の心の中にはずっと父が住んでいて、今も住んでいることは唯一確かなことなのです。

お父さん、私はこれを愛と呼んでもいいのかな。


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