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#4【結婚】結婚は目的?ゴール?幸せの答えは自分の中にしかない

私は、これまで2回結婚しています。
25歳の時に1回目、28歳で離婚し、30歳で2回目の結婚です。
1回目と2回目では全く❝結婚❞が持つ意味が違います。

概要

❝何でいつまで経っても幸せにして貰えないんだろう?❞
❝何で誰も私のこと理解してくれないんだろう?❞
❝あの人は何で何もかもうまくいくの?❞
❝自分ばっかり辛い目に遭ってるのは何で?❞

これらは私がずっと10代から心の中で問い続けて来たことです。

結論、幸せは人にして貰うものでも買うものでもないわけですが、
女たるもの、幸せにしてくれる人をさっさと見つけて安心・安全を見つけつつ、やりたいことに没頭してやろう。というのが私の魂胆でした。

結婚もできない女にはなりたくはないな。くらいの軽い気持ちだったと思います。

今思い返せば、ちゃんちゃら可笑しい、時代錯誤、浅はかな思考回路なのですが、決して順風満帆ではなかった私生活を通じて、ようやく幸せになる本質やツールを見つけられているように思えます。

結婚・離婚・再婚を通じて経験した、パートナーシップの築き方についてお話したいと思いますが、この記事では目に見える成果・結婚への執着が引き起こす葛藤とそれを乗り越えるプロセスで得た気づき・学びを中心に書いていきます。

結婚がゴールであり、結婚という形が一つの成果

恋愛こそ数多くの出会いと経験はありましたが、私の価値観は相当尖っていました。社会に出てからは特に、男性性優位で生きて来たがために、内側からあふれ出る愛や幸福に目を向けることを避けてきたと思います。

目に見える成果じゃないと意味がない。
強くなるにはステータスだ、結果だ、影響力だ。

苦労も努力も報われることが約束されていないものにエネルギーを使うなんて馬鹿げている。

恋愛においての努力って必要?時間の無駄じゃない?男なんて星の数ほどいるし。
だって頑張ったって成果が確実に出るとは限らないでしょ?
恋愛・家庭内の努力ほど無駄なことはないわ。
私の人生観・生きるペースに合わせられないあなたが悪い。
別に経済的にも困らないし、私のいうことが分からない人と長くいるほど暇じゃない。

そんな価値観を持って生きてきました。

結婚という概念を一つの成果物とすら考えていたかもしれません。
結婚の中身についてはほとんど考えていませんでした。
表向きは、幸せになるため(して貰うため)だったのですが、
案外結婚するのが皆早くて焦るな~。結婚くらいさっさと出来ないとダサいし、もう恋愛疲れた。男に振り回されてばっかりで全然良いことない。
良い人に出会えたら次結婚しよう。
そのためには努力(仕事と自分磨き)しないとな。
さて、働いて自分のレベルをあげよう。

こういった短絡的な考え方になっていました。

結婚したら幸せになるのか 

結婚したら自動的に、エスカレーター式に、幸せが降ってくるかサンタクロースがプレゼントしてくれるか、そんな風に夢見ていたと思います。
また、結婚という形・概念に囚われていました。ある種の執着ですね。

転職して1年ほど経った頃、仕事での成果が最優先でしたから、夫婦の在り方や今後の人生を考える余地はなく、またその必要性をあまり感じていなかったのが正直なところです。
当然結婚生活の歯車は段々と合わなくなってくる。むしろ、最初からその歯車なんてなかったと思います。どのような設計にするか、どのような人生を送りたいか、自分とも対話できていなかったので。

最初からパートナーシップに対するちょっとした違和感や不安はありましたが、こんなに大切にしてくれる人はもういないかもしれない。
そんなことを思い結婚を決意し、結婚生活が始まりました。

結婚したら幸せにしてくれるよね?約束したよね?
だったら私のこと理解してくれるよね?言うこと聞いてくれるよね?

くれる・貰えるの呪縛・執着です。

結局いつまで経っても満たされることはありませんでした。
結婚生活は徐々に破綻していき、話し合いはすぐさま怒号が飛び交う場になり、互いに怒りまかせに自分の考えを押し付ける。
最終的には別居(相手の突然の家出)・離婚という結論に至ります。

離婚・再婚のプロセスにおいて自分がどれほど相手から貰う愛や幸せに執着していたのか、コントロールしようとしていたのか、ようやく気付く訳ですが、そこまでに相当な痛手を払いました。

最初から幸せはあったはず。
相手から貰う幸せはエキストラなもので、生まれた時から本当は愛と幸せに溢れていたはず。
社会的な強さを手に入れれば自分は幸せになれると誤魔化してきたこと、それに気づきながらも寝たふりして生きてきた。
苦労があったのはなぜか。
それを気付くためのプロセスとして起きたに過ぎない。
全部最善の方向に進んでいる。

そんな答えに行きついきました。
2020年ヨガのティーチャートレーニングに参加しているとき、
ヨガの叡智を享受し、生き方そのものを見直すきっかけになりました。
その頃、自分の内側で詰まっていた何かがようやく解放され、解毒され、浄化されていき、何をするにも涙が止まりませんでした。

愛も幸せも、結局自分の中にしかない

みなさんにとって、愛とは何でしょうか?幸せとは何でしょうか?
愛や幸せの形や感じ方は十人十色ですが、これほど深いテーマはあるでしょうか。

もしかすると、結婚相手や付き合う人の条件を箇条書きにしている人もいるかもしれません。かつての私もそうでした。
100個くらい条件を書き出して、優先度が低いものは削除していき、必須条件に当てはまるならOKとしよう。そんな感じです。

私はいわゆる条件付きの幸せ・愛情で自分も相手も判断していたのです。

条件付きとは何かというと、

  • 資産があるから好き

  • プレゼントを買ってくれるから好き

  • 送り迎えしてくれるから好き

  • サプライズをしてくれるから好き

こんな具合です。

ある時ふと考えたことがあります。
もし自分が事故にあって盲目になったら、醜い顔になったら、寝たきりになったら、、
それでも夫は私のことを愛してくれるだろうか?そして私も愛せるかどうか?

条件が揃っていなければ愛せないというのは、真実ではないことに気づきます。条件が当てはまれば幸せになれるのか?本当にそうでしょうか。

また別でじっくりと記事にしたいと思いますが、
愛される・愛するという行いはまずは自分からスタートするものだと心底実感しています。これは自分から与えるというものそうですが、それより前に、自分をケアして本当の意味で自分を自分で満たせるか?という所に行きつきます。

もちろん、人は一人では生きてはいけません。

自分がどうしたら心地よく生きられるか、他者や社会・組織と共存・協調できるか?という柔らかさを持ちながらも、自分の心に振り回されず仲良くしていくことで、ようやく他者からの愛を無条件に受け入れることができるようになると思います。

結婚しなければ幸せになれない、離婚したいけどできない、
これらにも通じる話かと思います。

大丈夫。絶対に自分と向き合っていれば、最善なことしか起きません。

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