経歴詐称、についての考察

経歴詐称が話題だ。まぁこのネット社会でその経歴詐称ができたのはすごい、みたいな感嘆。彼の実績を買っていた人の失望。彼を信奉していた人たちの現実逃避。そんないろいろが渦巻いている。まぁ何にせよ、その中心にあるのは好奇心だ。切り口を変えると野次馬根性。かくいうわたしもその1人だ。

数時間かけて、意識高い系界隈の死、について考えた。わたしが近づかず離れなかった「界隈」が動揺しているのを見て、なんとあっけないものかと思った。「行動できない奴はクソ」「大学なんかより外に出ろ」みたいな、ちょっと過激な主張、「世界を変える」みたいなキラキラ感、そんなまぁまぶしくも鬱陶しかった部分が視界のはしっこで揺れて壊れていった、そんな感覚にさせられた。

別に経歴詐称自体はわたしはべつにそこまで非難されなくても、と思う。わたしもあなたも、何かしらで経歴を盛ることはあるのだから(多くの人にとって就活なんてそんなもんだよねぇ)。そして、その虚偽を見抜けず、カリスマ的個人に依存するようなキラキラ界隈、という構造にあまりに多くの人が加担していたのだから。経歴詐称だけを理由に少なくともマルチタレント的部分があった人間を血祭りにあげる資格はない。(勿論、なにかしらの実害を被った人がいればその人は別だ)

なんともいえない気持ち悪さが残るのは、それすらもコンテンツに変換されてしまった、この世界のせいだ。

経歴詐称は表面的事象に過ぎない。本質はそこにはない。本質は、この一連の事象を引き起こした、大学生を取り巻く環境と構造、あるいは個人の過去や心情にあるはずなのに、Twitterでは、Facebookでは、まとめサイトでは、その結果ばかりが面白いものとして取り沙汰されている。

違うんじゃないか。

まず、そもそもここ数年の意識高い、みたいなトレンドの背景は何だったのか。そこには確実に、これから来るといわれる「予測不能な未来」と、それに対する不安を必要以上に煽り、社会を知らない学生を怯えさせるビジネスやトレンドの存在がある。そして、ある種素直で真っ直ぐな一部は熱意によってそのトレンドに乗じてしまった、その構図があるだろう。いわば、不安がコンテンツとして消費されているのである。

(勿論わたしも未来への不安を感じる1人だ、しかしそれに対し、世界を変える、新しい社会をつくるという意識は消え去り、漸次的な変化の行く末がいい未来であるように、と祈り生きるという立場をとっているつもりだ)

そして、なぜこの意識高い系界隈の死、とも言える経歴詐称が起こったのか。それは行動とカリスマに対する盲信ではなかったか。熱量を持って行動する人のエネルギーを過信するような、既存の社会の打破というゴールへの固執ともいえるような現象はきっと起こっていた。そして、カリスマというコンテンツに行き着いたのではないか。

最後に、この一件は確実に良くも悪くも「盛り上がって」しまっている(ご本人や周囲もこれを炎上商法的に利用しようとしていると解釈できる動きすら垣間見える。)これでいいのだろうか。世の中、たしかに全てコンテンツかもしれない。全ての事象は、だれかのオタノシミ、餌になるために存在するのかもしれない。だけど、それを甘んじて受け入れることはわたしにはできない。こんな風に消費していいものか。きっと違うと思いたい。一時的に盛り上がり、だんだん風化してゆく、その時の流れという川に乱暴に流されてゆくオマツリを、繰り返して繰り返し眺め、囃して生きていく、それでいいのだろうか。

そうこうしているうちに、わたし自身もこの一件をコンテンツにしてしまっているということに嫌気がさす。どうしたら、丁寧に扱える。どうしたら、消費せずに済む。そう思いながらもキーボードを叩く自分に、今日もまた幻滅する。

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