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テレビの電源が入らない、から自分への期待を捨てた

テレビの調子が急に悪くなってしまった。電源を入れると、立ち上がるための回路が動いている音はする。けれど、途中で自分がなにをしているのか忘れてしまうかのように、ふーーーーっとまた電源が切れてしまう。放っておくとそこからまた息を吹き返してついたり消えたりを繰り返し、結局つかないで終わる。

数日前から起動に時間がかかり、立ち上がったと思うと初めて電源につないだときの状態から始まるようになっていた。昨日の朝は上記の状態で30分近くたってもつかない。あああ、「虎と翼」に間に合わないよ!と思ってテレビの後ろ側をみようと触ったら、ふいについた。

勝手な予想で、日付をまたぐときに電源が切れているとよくないのか、と考え、昨夜電源をオフったのが間違いだった。また今朝、つかない。

今日はもう「虎と翼」は始まっている。

これはテレビ見てる時間に他の事をしなさい、という流れか、録画してみていない番組は惜しいが仕方ない。ま、つかなくてもいいっかあ、と思ったら
、ついた。

けっきょく、テレビがつかない、なんでだ、どうしたらつくんだ、とムキになっているとつかない。コントロールできないイライラがつのり、テレビをつけるということだけが目的化し、時間を使ってしまう。

つかないんだ、仕方ない、まいいっかあ。水星逆行だしなあ~、って思って他をことをすれば、その時間はイライラどころか新しい発見や創造などの楽しい時間になる。

わたしはずっとずっと、スムースに手続きが行かないときにその解明と修正に執着してしまうタイプだった。テレビをつけたいのテレビが見たいからで、見る手段はPCやスマホがあればなんとかなる。でも、こうなったときの私は見ることではなく、スイッチを入れたらつくはずのものがつかない、というコントロールできていない状況に反応してしまって、テレビをつけることに執着してしまう。

うまくいかないことをうまくいかせようとしなくてよい、ということをこの半年ぐらいで染み込ませてきて、自分の執着がこんな形であるのだということに今回気づけた。

ペースを乱されたり進路を妨げられることがとてつもなくストレス。

でも、別に急いでいるわけでもないから前がトロトロ歩いていてもまあいいっか、と思えたら呼吸がふーーーっと楽になった。

これもきちんとしなきゃ病の一つなんだと思う。決められた時間内になるべく早く上手にこなさないといけない。単純なこの思い込みが、身体や脳に多大なストレスを課し続けてきた。

もういいや、それ。

のんびりのんびり。うまくいかせないといけないことなんて、案外ほとんどない。うまくいかないことは、うまくいかない方がよいからそうなっている。上手くいった方がいいことであっても、それを私が無理くりしなくてもいい。無理くりでもできてしまうと、それができる人になってしまう。そしてそのキャラがいつのまにか自分とイコールになってしまう。

これが世に言う「がんばる」ってやつだ。このがんばるはしなくていい。

がんばるのをやめる、っていうのは一生懸命をやめることでもないし、努力を捨てることでもない。求められる理想を自分の理想と思い違いをして、その姿であり続けようとすることをやめるということ。

理想ですら、親や兄弟や周囲の人からいつのまにか押し付けられ刷り込まれ、自分のものであるかのように勘違いしてしまう。そして、それがかなわないと焦りや怒り、不安がうまれる。

もうそれはいいや。だって、そのほうが結局テレビのスイッチもつくし、気持ちも穏やかなのだもの。

もう誰かの期待に応えようとするのはやめる。自分でも自分に期待するのをやめる。ただただ、か細い心の声がけなげに訴えてくることを淡々と叶えていく。それだけをすれば、電源は入るのだ。


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