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Day 347 マガジンを一年間、毎日書いてきて、わかったこと

かつて美大に通っていたという人の話を聞いた。その人は今はふつうにサラリーマンをしていて、なかなか絵を描けないという。

私は以前、文章を書かなくなったことで書けなくなったことがある。正確にいうと、思うがままに書くことを制限し、専門家らしい文章だけを書かねばならないという縛りを自分に課した。それまで、文章を書くことは息をするのと同じぐらい当たり前のことだったので、書けなくなるなんてことは想像もしていなかった。

でもこのとき、心が動かないと文章が書けない性質なんだということをいやというほど知った。専門家らしいことも書けなかったし、心のままに書くことを制限したために、心が動くことを制限することにもなった。

そんな経験があったので、その人にも、美大のころのような大作は書かなくても、落書きでいいから絵を描き続けた方がいいよ、という話をした。

すると、描きたいという情熱がないんだ、という答えがかえってきた。毎日絵をかいていたとき、自分の中には渇望があった。イメージが降りてきて、そのイメージが外に出してくれと訴えてくるそうだ。そうなるとそのイメージをどうしても具現化せずにはいられなくなるらしい。

そして、そのイメージのもとには自己卑下や罪悪感や怒りなどの強い感情があった。

今は、自分や周りのことがある程度見えるようになり、受け入れるようになり、そうした感情が弱まってゆるやかに満たされている。だからイメージも浮かばないし、どうしても描きたいという渇望がない。だから今は描けないのだといった。


これを聞いていて、自分もダンスに対して、なにか突き動かされるものが身体の奥にあるなと思った。

それは自分が踊っているときも、美しいダンスを見ているときも同じところが動く。

ときにはどこまでも広がっていく心地よさ
あるときは激しい心の動き
あるときは踊りてが積み上げてきたプロセスに込められた思い

必ずしも強い感動であったりと、決まった心の動きではない。

でもどのときも、自分の中で波が起きて清められていく。

そう、浄化、カタルシスが起こる。

自分が踊っているときでも、見ているときでも、カタルシスが起こるとき、そこに余計なものは一切ない。思考も目論見も期待もない。

ただただ、音楽とフロアと自分、相手、観客のエネルギーがある。

そうか、自分がダンスでしていることはカタルシスだったんだなと気づいた。さらに、ダンスに限らずあらゆる活動で無意識にゴールにしていたのもカタルシスだった。

この文章を書くことも、英語を教えることも、翻訳することも、ワークショップなどでファシリすることも、学ぶことも、スポーツすることも、語り合うことも。

自分と人にカタルシスを起こすこと。カタルシスを求め、与える。もっというとそういう自分がカタルシスそのものなんだということ。

傲慢に聞こえるだろうか。でも、浄化は得るものでも与えるものでもない。そう考えたとたん、自分とは分離する。

浄化とは自分の中の不浄なものを排除することではない。真の自分との間をふさぐようにある自我の思考を手放すこと。なぜあるかというと、自分が握っているからだ。その手を緩めると、手放された思考は生まれた真空の源へ帰っていく。消えるのではなく統合されるのだ。自分から切り離されるのではなく自分に統合されるのだ。

そういうことを一気に思い出した。気づいたとかより、思い出したという感覚に近い。額がとても暖かい熱と光を放っていた。

まだまだ弱く未熟な体験だけれど、それでも、ああ、ここに常に帰りたくて私はいろいろなことを行いぶつかり苦しんできたんだなと思った。

浄化するには浄化するものが必要だ。だから思考や苦しみがいっぱい抱えるような生き方をしているんだな。

けれど、もう、浄化するものは必要ない。そして浄化するという行為も必要ない。なぜなら、自分が浄化そのものだから。いや、それも違うか。浄化を生きている。浄化というシステムそのものが自分なのだ。

今日は奇しくも、このマガジンを始めるきっかけとなった本田健さんと、オンラインサロンで話す機会がある。1年前に健さんにした質問に直接かかわることを話すわけではないけれど、そしてそのテーマにかかげたことがこの3次元の世界で文字通りに起きたわけではないけれど、あのとき本当にもとめていたものを手に入れた気がする。その感謝をこめて、今日会えることがなんともまた、面白い計らいだなと思わずにいられない。

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