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表現する人はひとりぼっちではない~古典×現代2020@国立新美術館

美術館に来るのは、久しぶりだった。

ここ数ヶ月、楽しみにしていた展覧会の「休止」「中止」が発表されるたび、胸の奥の部屋に錘がひとつ追加されたような、息苦しさを感じていた。

ようやく再開された美術館は、思い立った時にふらりと行ける場所ではなく、完全日時予約制になっていた。

駅の出口で検温と消毒があり、美術館の入り口にも消毒が、さらに展覧会の入り口では列に並び、スマホに表示されたバーコードをスキャンしてもらって入場する。

ともあれ、どんなかたちでも、絵が見られるのはうれしい。

それに案外、良いこともある。時間あたりの人数を制限しているので、通常なら混雑しそうな人気の展覧会も、適度に空いた状態で落ち着いて見ることができるのだ。

国立新美術館で8月まで開かれている「古典×現代2020 時空を超える日本のアート」。私は平日の午前中に出かけたのだけれど、やはりラインナップからは考えられないほど人が少なくて、静かにじっくり鑑賞できた。

展覧会のテーマは「故きをたずね、新しきを知る。」

江戸時代以前の美術・工芸作品と、8人の現代美術家の作品を組み合わせて、8つのテーマで展示している。

どのテーマもそれぞれ心に残ったのだけど、私が特に印象に残ったのは

1)円空×棚田康司

2)刀剣×鴻池朋子

の2部屋だ。

1)円空×棚田康司

円空は江戸時代のお坊さんで、全国を旅しながら、生涯に12万体もの仏像を彫り続けた人。

「一木造(いちぼくづくり)」といって、一本の木から仏様を彫り出すスタイルが特徴だ。

円空が彫る仏様は、お寺などでよく見かける「おすまし顔」ではなく、子どもみたいにふっくら、ニコニコして、「大丈夫だよ」と話しかけられているような気がする。

今回の展示の中では、十一面観音菩薩立像がとても良かった。空いているのをいいことに、しばらく向かい合って立っていたら、何だか泣きたくなってしまったので、現代の、棚田康司の作品のほうへ移動する。

棚田さんもやはり一木造の彫刻家で、少年や少女の像を制作している。透明なまなざしでどこか遠くを見つめている繊細な子どもたちと、荒削りの円空仏が、同じように1本の木から彫り出されたというのは、とても不思議な感じがする。

会場には、棚田さんから円空に向けた手紙のような文章があって、私は今度こそじーんとしてちょっと泣いてしまった。

彫刻家や画家、芸術家とよばれる人たちは、孤独なんだろうなと思っていた。それもきっとある意味で真実なのだけど、それだけじゃない。時空を超えて、同じように表現を追求していた先輩たちと目が合う瞬間が確かにあって、だから、表現をする人たちはきっと、孤独を抱いていてもひとりぼっちではないのだ。

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2)刀剣×鴻池朋子

実は20代のころから刀剣を見るのが好きで、ときどき、国立博物館の刀剣の部屋へ行き、じっと眺めている。

専門的なことは何もわからないのだが、時代や作者によって少しずつ形が異なり、「やさしい感じ」とか「武骨な感じ」とか、人間と同じように、一振りずつ違う性格を持っているように思えてくる。

鏡のように、顔が映るほど磨かれた表面を、何時間眺めていても飽きない。今回の展覧会では、「秀次」という鎌倉時代の刀がとても良かった。

刀剣の部屋いっぱいに飾られていたのは、牛の革を繋ぎ合わせた巨大なカンバスに、クレヨンと水彩で描かれた鴻池朋子さんの絵画。隙間の部分を、奇妙な振り子が行ったり来たりしている。

牛の革で作られた帳の下に展示された、切るための道具である刀を見ていると、生命の歴史と脈動みたいなものを、言葉ではなく体で感じられるような気がした。

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美術館は不要不急かもしれないけれど

絵や彫刻を見なくても、人は身体機能を維持することができる。だけど久しぶりに美術館へ行って、心の錘がひとつ減り、一段階深く呼吸できるようになった気がした。

どんな時代にも、人は絵を描き、木を彫り、革をなめし、鉄を打って生きてきたのだし、きっとこれからもそうしていくのだろう。そして、その大きな流れの中に身を置いているかぎり、私たちは皆、ひとりぼっちではないのだと思う。

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