でこぼこの私たちが、不完全なまま一緒にいるために
夫は、仕事がいそがしい。
結婚して14年、いろいろな時期があったけれど、ここ数年は特にいそがしい。
たとえばこの1ヶ月、平日は午前2時とか4時に帰ってきて、朝7時前には出かけていく。
(少しでも睡眠時間を取れるように、職場まで自転車で行ける距離の家に住んでいる)
夫の選んだ人生とはわかっていても、そのような働き方が長く続くと、何と言っても体が心配だ。
今は下の子どもが5歳になったので育児もだいぶ楽になったけれど、子どもたちが小さいときは、ひとりで育児と家事をこなしながら仕事をするのが本当に大変だった。
(これからお母さんになる若いひとたちには、もう誰にもあんなに心ぼそい思いをしてほしくない。だから私は、働き方や持続可能性についての記事を書く仕事を続けてきた)
子どもが生まれて間もない頃は、夫に対して感情的になって怒ったり、泣いたり、論理的に説得をこころみたりしてみたけれど、夫個人の問題というより社会の構造的な問題なので、今すぐに現実を変えることも難しそうだ。
そうこうしているあいだにも、無力感や悲しみのかたまりが、喉の奥のあたりでどんどん大きくなっていく。
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初めに取り組んだのは、自分の感情と向き合うことだった。
一番上の層には「家や子どものこと、どうして私が全部やらなきゃいけないの!?」という怒りがある。
その下には、「寂しさ」「悲しさ」が。
そして最下層には「どうせ私なんて価値がない」という無価値観や、見捨てられることへの怖れがあると気づいた。
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次に、それをどうやって相手に伝えるかを考えた。
「怒り」をぶつけると、相手は攻撃されていると感じてドアを閉めてしまう。
かと言って、いきなり「どうせ私なんか…」と無価値観を伝えるのも、ちょっと真意が伝わりにくい。
だから、比較的受け取りやすそうな「寂しい」「悲しい」というメッセージを伝えることにした。
コミュニケーションをとることができる貴重な休日、できる限り冷静に「あなたがいなくて寂しい」「健康を害さないか心配すぎて悲しい」という気持ちを言葉にしてみる。
黙って聞いていた夫は「話してくれて、ありがとう」と言った。
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だからと言って、明日から劇的に生活が変わるわけではないことは、14年も夫婦をやっているとわかる。
夫婦でも、親子でも、人は自分以外の他者を、思い通りに変えることはできない。
でも、気持ちを「手渡す」「受け取る」というやりとりをすると、喉のかたまりが少しだけ小さくなる。
それはたぶん、私から夫へ、という一方通行ではなく、夫から私へも伝えたいことがあるはず。
だから手わたすだけでなく、いつも受け取れる準備をしていたいと思っている。
ボールのやりとりは、距離の近い人同士ほど、そして渡そうとする気持ちがマイナスの感情であるほど、億劫になる。
「もういいや」とあきらめて、抱え込んだり、受け流したりしたくなる。
それでも、あきらめないでボールを渡し、受け取り続けることがたぶん、一緒に暮らす明日を選択するということなのだろう。
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平日はほぼワンオペ育児で、2〜3年おきに全国転勤があるという話をすると、「強いね」「強くなったね」と言ってもらうことがある。
ありがたいけれど、それは誤解だ。
私は、ちっとも強くない。
寂しさや不安に慣れることも、どうやらなさそうだ。
14年間で変わったことがあるとすれば、自分の弱さを笑って認められるようになったことくらいだ。
私は、私たちは、完璧じゃない。
完璧じゃないから、一緒にいる。
家族をゆるすことは私にとって、自分の凸凹さ加減を受け入れる過程でもあった。
大きくなっていく子どもたちにとってこの場所が、うまくいかなくても、落ち込んでもかっこわるくてもとりあえず、ごはんを食べに帰れる場所であってほしいと思っている。
たとえば私自身にとって、そうであるように。
読んでいただきありがとうございます! ほっとひと息つけるお茶のような文章を目指しています。 よかったら、またお越しくださいね。