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“連帯責任”のやさしさ

もぐもぐとひき肉の炒め物をほおばりながら、東海大学の野球部が大麻を使ったニュースを見ていた。

野球名門大学の無期限活動停止。それを受け、司会や評論家、コメンテーターが議論を交わす。議論の内容は、「部活動で連帯責任を取る必要があるのか」ということだった。

プロ野球で誰かが不祥事を起こしても、球団が無くなることはない。当事者の野球選手だけが罰を受けるのだから、大学生の彼らも連帯責任を取る必要はないのでは、というのがテレビの中のマジョリティ意見だった。確かに、と思った。

けれど、「連帯責任を取ってもおかしくない」と語る教育者。なぜなら大学は教育機関であるからだ、という。その人以外が反対意見を突き刺す中、私はその言葉に、育てる者のやさしさを見たような気がした。

プロ野球での不祥事は、当事者その人だけが背負う責任として見られている。社会に出ればそんなことは数えきれないほど多く、機密情報満載のパソコンを無くせば、無くした人だけクビになるだろう(上司や同じ部署の人まで一緒にやめることはない)し、失言をして炎上したら、謝罪して辞めるのは失言した人だけ。誰も一緒に責任はとってくれない。

だからこそ、社会に出る前に、悪いことをしたら“この組織にも責任の一端がある”と、連帯責任をとってくれる場所があるって、実はすごくありがたいんじゃないだろうか。一緒に責任を背負い、良くなかった行いを改めていく。そこで罪を犯した本人は、自分の行動が他人にまで影響することを知っていく。

たしかに連帯責任を担う人が、同じ教育を受ける立場の人(今回の場合は同じ野球部員)も含まれてしまうのはちょっと可哀そうな気もするけれど、一緒に学ぶ仲間として、責任を分担しようということなのかもしれない。

20歳すぎたらもう大人なんだから。大学生ともなればそう言われるかもしれない。いつまでも教育を受けてる場合じゃないよ、と。けれど学費を払って学びに来ていることには変わりないのだから、お金をもらって野球をしているプロや社会人とはやっぱり立場は違うよなぁと思う。教育機関は、まだ未熟な部分がある者にとって、とてもやさしい必要不可欠な場なのだろう。

学んでいる立場のころは、そんなこと1ミリも思わなかったのに。お金を生み出す立場になり、学ぶ場が無条件で用意されている環境から離れてから、教育機関のありがたさを強く感じるようになった。教育を受けられる、学ぶ場があるって、すごく尊いことだ。


一昨年の毎日note


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