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継続も力なり。色々な経験もまた力なり。

私の職歴は多岐に渡る。

大手電気メーカーの社員として商品管理をしていた頃は、人生の中でも一番の大金を動かしていたと言える。大学に出てすぐの実家暮らしの若い私は経済観念も薄く、バブルが弾けた頃だったけれど、頂くお給料の価値も社員積立の利息の大きさも、ボーナスのありがたさも、育休休暇があることも、何も自分の人生に左右することだとは思っていなかった。

結婚したら仕事は辞めていいものだと思っていた。なんと浅はかな!

それほど私は、大会社のOLの仕事と言うものの楽しさを感じていなかったし、むしろ学生時代に書店のアルバイト店員をしていた経験の方が、自分らしくとても楽しいものだった。大学生のアルバイトがたくさんいて、サークルのような活気のある書店だったから、学生時代のアルバイトはずっとここだった。大学の周りの友達は、京都大学との親交が強い女子大だったので、京大テニスサークルに通い詰め楽しそうだったけれど、私はそれ以上に書店での仕事に没頭した。途中から好きな児童書の担当になった。

当時から、大会社のぬるま湯が苦手で、世界には食べるものがなくて命を終えていく子ども達が居るのに・・・と思いながら、月に一回お菓子を配られる意味不明の親交会(定時後)に参加していた。このお菓子の予算は、必要経費なのか?と、生意気な私は問題視しながら、各テーブルに配っていた。

ある時から帰宅した後、親と暮らせない子どもの施設のことを勉強し始めた。私はいつか子どもに関わる仕事がしたい。目的を持った仕事がしたい。

困っている人の役に立つ仕事がしたい。


大学は初等教育科を専攻し、小学校と幼稚園教諭の免許を取得していた。それでも教職の道には就かず、愚かな私は母の勧めるその大会社に入社したのだ。それは父母の出逢った会社だった。父を早くに亡くし、ひとり親だった母を安心させたかったことと、教育実習で、小学校の先生の仕事が、とても子育てと両立出来るものに思えなかったからだ。当時から私は、乳児期には自分の手で育てたいと思っていた。

その希望を優先し、何一つ後悔はしていない。子育てを終えた今、保育士となって4年、次の自分の道を探っているところだ。


ちなみに電機メーカーで勤めている間に社外の人と結婚し、その会社を辞め、子育てに入り、その後社会復帰したのは、下の息子が2歳の時。原因は結婚の解消。やむを得ず仕事をしなくてはならない状況となった。選んだのは、子ども服のお店の店長候補と言う求人。接客業が好きな私は、すぐさま飛びついた。

慌てて保育園を探し、2歳の息子を保育園に16時お迎えで預けていた記憶がある。けれど迎えに行くのはもう少し早かったのだろうか・・・。いつもその時間は午睡中だった。その保育園で息子は一つも笑わなかった。当時の保育園で買った写真に笑顔のものが一枚もなく、ふてくされている息子が居る。今でも見るに忍びなく、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。そして、3歳になって私の環境が変わり、別の幼稚園へ移った。


私は、自らの意志で、子どもを保育園に預けて仕事を続けると言う選択をしていない。また、私自身も幼稚園で育っている。だからなのか、保育園で保育士をする前から、乳児期に保育園で過ごす子ども達は、どんな風に育つのだろう・・・と思っていた。保育士になって4年が経ち、色々と思うところがあるのは、これからも他の記事に記していきたい。

他に、上場したばかりのとある会社で受注窓口の仕事をして、社員になり、新卒の若者の人材育成(メンター)や、チームリーダーをしていた。シフトを組んだり、チーム内の個人個人の目標達成に関する面談もしていた。かなり忙しい部署であくせく働いていたけれど、それなりに楽しかった。若い頃に大手企業で働いた経験も活かされた。

また、医療事務の資格も取り、クリニックの窓口業務をしていた頃もある。看護師さんと同じユニフォームを着て、背筋がピンとした。


会社員、店舗での接客、クリニック受付窓口業務、そして保育士。

多岐に渡る私の経験の先に今の私がある。さて、これからどう華を咲かせられるか。少しずついろんなことが見えてきた。





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