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学校を肯定する:講師から教師になろうと思った理由

私はどこかで学校を、教育を否定する気持ちを抱えていた。

2018年に英語を教える仕事をしようと思ってCELTAを取得した。その後、企業向け講師、小中学生の英会話講師、中学生の学習塾講師、色々なスタイルの英語教育に携わってみた。

企業向け講師の仕事は割と面白い。日本人講師が担当する授業に参加する受講生の英語力は然程高くはないのだが、様々な仕事に就いている人と話すのは楽しいし、本気度の高い人は見る見るうちにレベルアップしていくので教える側としてもやりがいがある。

一方、学生向けに関して、どこか苦い気持ちを抱えて授業に臨んでいる自分がいる。学校へ行き、部活をやり、疲れた身体で塾にやってくる生徒を見るのが忍びなかった。土曜に塾や英会話に通ってくる子供は覇気がない。特に小学生は集中出来なくてふざけ始める子も多い。20数年前、私も高校受験のために確かに塾に通っていた。そういうものだと思っていた。それこそ世界中の中学生が放課後は塾に通っているものだと思っていた。もちろんそうではない。ほんとうに20数年前と根本的には何も変わっていないのだなと感じた。

外国人の英語講師と話していると「日本の子どもはかわいそうだ」と言われる。私はそれを否定できない。習い事ばかりで、家族と過ごす時間もなく、友達と自由に遊ぶ時間もなく、かわいそうだと言う彼らの意見は尤もだと思う。しかし、そのおかげで、彼らは職にありつけているのだ。それは私も同じだった。

「学校だけ十分ですか」と謳った広告を見かける。完全に学校を軽んじている。私はそれを恥ずかしいと感じる。もちろん、学校を客観的に見て思うことは色々とある。また、学校に行くことが絶対ではないとも思っている。しかし、大人が学校を否定するようなことを言えば、子どもも学校を否定するようになる。学校が意味がないもののように思えてくる。意味がないと思えば、学ぶ気持ちは薄れるだろう。そして、一度抱いてしまった否定的な考えを取り除くのは難しいものだ。

学習のゴールが大学入試になってしまっていることは、日本の捻じれた教育システムの要因の一つだと思っている。多くの英会話スクールや学習塾は、そこを上手く突いた戦略で展開している。学習者(というよりはそれに出資する親)のコンプレックスを煽り、学校の学習を否定するかのような印象を植え付けてくる。そして、私はその組織にいるのだ。私は学校の学習を否定しているのだろうか?

しかし、学校を否定し始めたら、これ以上日本の教育の向上は望めない。今後、学校の形態は変わるかもしれない。ホームスクーリングやオンライン通学など様々な形態での学びが生まれて欲しいと思っている。しかし一方で、多くの子どもにとって、教育の軸に学校があることは今後も変わらないだろう。だとすれば、私は学校に対して肯定的であるべきだと思った。学校という組織で教育に携わること、それが私の望む未来だと感じた。そして、講師ではなく教師になろうと決めたのである。


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