見出し画像

あいちトリエンナーレの表現の不自由展や表現の自由や河村市長について

今日は「あいちトリエンナーレ2019」についてのお話です。である調です。

なにかと話題になっている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が再開される。しかし、河村たかし名古屋市長は開催費用の市負担金約3300万円の支払いを保留する考えを明かした。

9月終わりには、文化庁が補助金7820万円の不交付を決定している。この決定には反対の声も大きいが、両補助金の不交付が実施された場合にはあいトレは1億円以上もの大金を使用できなくなる。芸術祭の継続にも支障が出てくるだろう。

この一件はとうに一芸術祭の枠組みを完全に超えて、右派と左派の対立軸を盛り込むリトマス試験紙のような存在になってしまったと感じる。以下に自分の考えを整理していきたい。

あいちトリエンナーレ2019と「表現の不自由展・その後」

あいちトリエンナーレは2010年から3年ごとに開催されている国内有数の規模を誇る国際芸術祭だ。2019年はジャーナリストの津田大介さんを芸術監督に迎え、4度目の開催となる。津田さんが「芸術の男女差」について繰り返し発言していたように、開催前には参加する作家の男女比が1:1であることが話題になり、この点を評価してかチケットの売上も好調に推移していた。

このうち話題になっているのが「表現の不自由展・その後」だ。「その後」と付いているように、元は「表現の不自由展~消されたものたち」として2015年に東京・江古田にて開催されたものを継承・発展させたものになる。

あいちトリエンナーレ2019での展示では、オリジナルの作品に加え、各地の芸術祭・展示会・ギャラリーにて展示が許可されなかった作品が集められている。いわば“問題児”を集めたもので、政治的主張を含んだ展示物が含まれていることがやり玉に挙げられることになった。

右派と左派の対立を生んだもの

展示物のうち、多くの議論が交わされることになったのは、「平和の少女像」(旧日本軍の慰安婦を象徴する少女像)「遠近を抱えて PartII」(昭和天皇の御真影を燃やして燃え残りの灰を足で踏みつぶす:産経新聞)「焼かれるべき絵 / 焼いたもの」などだ。

これを右派は「税金が投入されている芸術祭で政治的な内容、悪意に満ちた敬意の欠片もないようなものを展示するのはどうか」と怒り、「表現の不自由展・その後」に否定的な感情を隠さない河村市長の行動を支持している。

左派は「開催が決まった芸術祭の展示内容に行政が口出しし、あまつさえ交付が決まっていた補助金が不交付になるのは問題だ」と声を挙げ、同様の主張を繰り返している大村秀章愛知県知事の行動を支持している。

超簡単に整理するとこうなるだろうか。

こう見ると左派と右派の主張ポイントは少しずれている。右派は展示物を問題視し、左派は展示に対する行政の反応を問題視しているからだ。(右派は大村知事の発言を否定しているが、主軸は展示物に対する反応だろう)

実際僕も展示物に対しては「なんだかなぁ」と思っているし、かといってそれを行政が抑え込むのは問題だと思っているしで、両者の主張は分からなくもない。しかし行政と「表現の自由」の関係はやはり難しく微妙なものなのだ。

「表現の自由」を権力側が判断することはない

「表現の自由」が問われる事態となっているが、日本国憲法では第二十一条がこれに該当する。

第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

憲法の条文はこのようになっている。ではその憲法の目的とは何かというところについて語ると、国(権力)を縛ることに他ならない。そして権力を持つことになる政治家や公務員に対しては憲法尊重擁護義務が課せられている。

第九十九条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

憲法的に言えば、「表現の自由」の問題は、表現の内容に関する問題ではない。国(権力)が表現の内容について判断することはできないという趣旨だ。大きな力を持っている権力側は、やろうと思えば言論統制など容易だし、憲法制定後に発達したネット社会でも中国のように通信を制限したり、処罰を加えればいい。

ただ権力と一口に言っても、現実的には「表現の自由」については過去複数の判決が出されているように、司法(特に最高裁判所)は表現の内容についての判断を求められている。しかし行政や立法はこの立場にない。

政治家の発言=行政の判断ではないが、河村市長が支払い保留を発表し、菅官房長官が「審査の時点では、具体的な展示内容の記載はなかった」と発言した結果、文化庁が補助金交付を取り下げているのは事実だ。これは問題だ。

(ちなみに文化庁は内容どうこうではなく手続き上の問題と言ってます)

行政が行う判断とは

行政が行う判断としては「監督者の選出」「展示期間について」「展示手段が違法ではないか」という辺りだろう。

芸術祭にどの作家・作品を呼ぶかということは誰か(どこか)が決めなければいけないが、行政が選ぶとなればそれは展示内容を精査するのと変わらない。となれば行政に求められるのは作家や作品を選出する“監督者”を任命/信任することであり、今回のあいちトリエンナーレ2019では津田さんが「芸術監督」を務めている。

「展示期間について」についての判断も必要だろう。極端な話をすれば、展示期間が100年とかになれば、美術館や公共の施設を占拠しているのと変わらない。これも問題だ。「展示手段が違法ではないか」はそのままの意味だ。

「金を出している」

やはり右派的に引っかかるのは「税金・公金が投入されている」というところだろう。「自分でお金を出しているんならどんな物でも好きに展示すればいいけど、今回のは税金でしょ?」という心境は分からなくもない。

ただ今回のあいちトリエンナーレにしろ、2019年にも開催された瀬戸内トリエンナーレ(瀬戸内国際芸術祭)にしろ、この規模の芸術祭を個人の資金や企業からの賛助金だけで賄うことは困難である。

だから日本には「補助金適正化法」があり、文化庁は「文化資源活用推進事業」にて補助金審査を行っているのだ。これは国や地方自治体にスポンサー的な役割が求められており、国もそれを理解しているということの証左にほかならない。

テレビのスポンサーなら番組の内容に口出しをすることもあるのかもしれないが、行政の役割については上に書いたとおりである。

あいちトリエンナーレに対する補助金の取扱いについて

「ヘイトスピーチ」

「これはヘイトスピーチのような差別的なものではないのか?」といったようにヘイトの問題と結びつける主張も散見される。

実際に2016年にヘイトスピーチ解消法ができて以来、日本でも「ヘイトは許されないものだ」という機運が高まっている。「表現の自由」の限界を示す事案だ。河村市長が「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの。いかんと思う」と発言したのも「ヘイト」や「差別」という言葉を使ってはいないが、展示物を日本や昭和天皇を侮蔑するものだと判断したということだろう。

これについては法務省のホームページも参照してほしいが、ヘイトスピーチの具体例として「あおり立てるもの」「危害を加えるとするもの」「著しく見下すような内容のもの」を例示している。ヘイトの根幹は○○人を追い出せのような差別を煽るもの、扇動するものだ。

日本や皇室に愛着を持つ個人として、昭和天皇の御真影を燃やすという行為は芸術の中でも極北に位置するものであり、果たして許容されうるものかという疑問はある。

しかし、今回の展示の結果、例えば外国籍の店主の店から「日本人立ち入り禁止」などの行動が起こりうるか、皇室を具体的に攻撃するものが出てくるか、と言われれば首を傾げる。

差別は歴史上長く行われてきたが、差別行為がどのような処罰・対応を受けるべきかについてはまだまだ根が浅い話だ。これから社会や議論が成熟していくことが求められる。その結果、差別扇動だけではなく、否定的な発言が個人の感情だけではなく、立法の趣旨としても問題視されることだってあるだろう。

最後に

では誰が(どこが)「表現の自由」を判断するのか。それは権力の座にない一般市民だ。

「表現の不自由展・その後」が問題があったか、問題がなかったか。それらは実際に見た個人によって判断されなければならない。そのためには開催、再開が必要だ。そうしなければ最終的・結果的に展示を振り返ることができず、評価を下すことはできない。評価を下すための展示期間が数日間というのは短すぎるのだ。数日間では来場者も限られてしまう。

かつて角川書店(KADOKAWA Future Publishing)を創立した角川源義は角川文庫の発刊に際して「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。」と書いた。中国の歴史を見ても、文化力が国力の一端を担っているのは間違いない。この一件で自粛ムードが広がらないことを願うばかりだ

おわり。

追記

河村市長は「日本国民に問う!陛下への侮辱を許すのか!」というプラカードを掲げて座り込みを行ったようですね。以下報道記事です。




サポートしていただけると、とても喜びます。とても喜んだあと本を買いたいと思います。