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父への手紙

7月5日

今日は亡き父の七回忌になります。
父は2014年7月5日(土)の朝7:06に、79歳で天へと旅立ちました。
自宅で倒れたのが2013年10月28日(脳梗塞)、それから半年以上の闘病生活を送った末に亡くなったんですが、今も父は家のどこかにいて、私が仕事から帰ったら
「おかえり!」
と声を掛けてくれるような気がしてなりません。

晩年は病気のオンパレードで、入院、退院と目まぐるしかったですが、2013年10月28日に救急車で病院に運ばれる父を見ていたら、もうこの自宅には戻れないだろう・・・と、覚悟が芽生えました。

それでも毎日仕事後に見舞いに寄ると、いよいよ北陸新幹線が出来るから、開通したら昔住んでた横浜に連れてって上げるよ!等、前向きな言葉を掛けるようにしました。

父も寝たきりで、脳こうそくのせいで発音もちょっと不完全でしたが、会話は出来たので、見舞いで30分ほど会話することが、父への私なりの懺悔でした。別れ際には、明日も来るからねと握手していましたが、父の握手する力はとても強く、なかなか離してくれませんでした。

なぜ見舞いで会話することが懺悔かというと、私は子供として父にして上げるべきことを、碌にして上げられなかったという後悔の念が、積もりに積もっていたためです。

父への詫び状

まず60歳で定年退職を迎えた際、なんのお祝いもして上げられなかった…、同時に還暦の祝いも催して上げられなかった…、この後悔があります。

父は大が何個付くか分からないほどのお酒好きでした。そのため、そういう祝い事はやめておこうと、母と話して行わなかったんですが、その後の70歳の古希、77歳の喜寿の祝いも何もしてあげられなかったんです。

これは父が亡くなって自宅に無言の帰宅をした際、やって上げれば良かった、ごめんねと、何度も父の前で詫びました。

また父は私が小さい頃から、いつでも私の味方でした。

稀に怒られて、家の外に出されるようなこともありましたが、それは私がやんちゃ盛りの幼少期のことなので、そのことで父を恨んだりしたことはありません。

私を喜ばせようと、まだ私が幼いというのに、高価な鉄道写真集を買ってきてくれたり、休みの日には横浜駅まで電車を見に連れてってくれたり。
私が小学生後半で、鉄道模型のNゲージを始めようとした時、母はこんな高いだけのオモチャ!と怒ったんですが、父は立派な趣味だと擁護してくれました。

広島へ引っ越した後は、私も中学高校と進学し、父と出掛けるような場面は減りました。
一度だけ私も反抗期だったのか、家に帰ってもビールばっかり飲んで!と父を怒ってしまい、それに父も対抗して激怒し、父子喧嘩をしたことがあります。
その喧嘩の直後、父は泣きながら、たった一人の息子に嫌な思いさせて悪かったと、謝らないでもいいのに謝ってくれ、寧ろ私が父に詫びたことがありました。

随分と後になってから母に聞いたのですが、父がやたらと酒量が増えていた頃は、父は職場で今でいうパワハラを受けていたらしいのです。
特に趣味もなく、ひたすら家族のために働いてくれた父の唯一の楽しみが、お酒だったんです。
そんな時に、父の事情を知らなかったとはいえ、父に反抗してしまい、申し訳なかったと、今も詫びたい気持ちを持っています。

大学受験したいと言った時も、悔いの残らないように頑張れと言ってくれ、予備校の冬期講習の費用や、各大学の受験料、遠方へ受験しに行く際の旅費など、今度はこれぐらいお金がいるんだけど・・・と言っても、お金のことは気にするな、と言ってくれました。
結果的には滑り止めで受けた広島の私大に通うことになり、途中からは父が最後の転勤で富山へ戻ったことから、私も広島で一人暮らしをすることになり、一番お金が掛かるパターンに陥ってしまったのが申し訳なかったです。

就職先が富山に決まった時も、父は喜んでくれました。表面上は、お前が勤めたい会社なら日本のどこでもいいと言ってくれていましたが、本音では富山で就職してほしいと願っていたのではないかと、私は思っています。この点だけは、唯一親孝行出来たかな?

また私が富山で就職した後も失恋ばかりしていた時は、父なりに私のお嫁さんに相応しい女の子はいないかと、必死に探してくれていたと、これも後から母に聞きました。
ある病院に入院した際には、とても素晴らしい看護婦さんがいる、是非ウチの息子の嫁に・・・と思ったら、結婚指輪してたよ、残念だった!と笑わせてくれました。

晩年の父

そんな父も私がやっと自力で結婚相手を見つけ、無事妻として我が家に迎えた辺りから、肩の荷が下りたと思ったのか、認知症の症状が出始めました。

私はとてもその現実を受け入れられず、父が粗相をした際には厳しく問い詰めたりしてしまい、その都度父がシンミリと申し訳なさそうにしていたのが忘れられません。
昔の父でいてほしい、なのに今の父はなんなんだ?しっかりしろと考えてしまう自分と、現実の父に即した態度をとらねばならないと考える自分の二律背反。

頼む、これ以上症状が進まないでくれ…と思った矢先、私たち夫婦に娘が授かりました。
赤ちゃんや小さな子供が大好きで、小さい時の夢は幼稚園や小学校の先生だったという父はとても喜んでくれ、奇跡的に認知症の進行が止まったのです!
孫が生まれるということは、ものすごい効果があるんだ、と実感しました。

それ以来、父の頭の中は常に孫ファースト(笑)
最後の入院生活中も、常に孫娘のことを心配していました。

その入院中には、何度か主治医の先生とも話したのですが、やはり回復は難しい、いつ何があってもおかしくないという心積もりだけはしておいて下さいと言われました。

そして2014年の6月下旬、いつものように仕事後に病院へ寄ると、昨日までいた4人部屋から、父は個室へと移されていました。
更に体には色々な測定器が付けられていました。

もう長くない。

でもその日はまだ、父は喋ろうとする気力がありました。
まだお迎えが来るとは思ってなくて、私もまだまだだよ!と声を掛けましたが、病院から家へ帰る時は涙が溢れてきました。

幼い時、一緒に風呂に入ってしりとりしたこと、母親に怒られて家出してやる!と出来もしないことをしようとしてたら父に見つかり、父が家に連れ戻してくれたこと、大学の卒業式にわざわざ休みを取って来てくれたこと、免許を取ってから桜を見に行ったことや、紅葉を見に行ったこと等、様々な思い出が蘇ってきます。

その日以降、日に日に弱っていき、亡くなる前日は亡くなる前の典型的な症状、荒ぶる呼吸だけという状態になってしまい、会話はもう出来ませんでした。

まだ教えてほしいことが沢山あったのに、もう聞けないね。

ありがとう、さよなら、お父さん・・・。

死後

父が亡くなった後は、喪主としてやることが沢山ありすぎて、感傷に浸ってる間はありませんでした。
ただ通夜の後、父と共に最後の夜を過ごしたのですが、明日に備えて寝たいような、最後の夜だからずっと起きていたいような、そんな気持ちだったのを覚えています。

それと翌日、荼毘に付される際に、感極まってしまいました。
妻、娘、母がいる前でしたが、もうこれで会えないかと思うと寂しくて悲しくて。

葬式が終わった後は、父関係の手続きに奔走しました。
我が家はちょっと複雑な事情があるため、父の生前に済ませておいた手続きが多かったのですが、それでも年金の手続き、福祉の手続き、各方面への挨拶等々、何日あっても足りないんじゃないかと思うほどでした。
直系の父または母が亡くなった場合、7日間の忌引きがあたるのですが、7日じゃ足らないとも思いました💦

やっと落ち着いたのは、月が替わる頃だったと思います。
でも落ち着いたら落ち着いたで、また父のことを思い出すんです。

もっと楽しい老後を送らせてあげたかった・・・

昭和9年に生まれ、小学生時代に戦争に巻き込まれ、富山空襲で父(私から見たら祖父)を亡くし、高校進学を断念して家族のために働き、結婚した後もギャンブルなど一切せず、ひたすら家族のために三交代制勤務という激務をこなし、趣味はしいて言えば読書、スポーツ観戦、そしてお酒、そんな父でした。
最後の入院生活で見せてくれた、闘病生活へのガッツは忘れません。

私が父のもとへ行く時には、しっかりとした人生を送ってきたよ!と報告できるよう、自分も父のように強くありたい、改めてそう思う、7回忌の今日です。

1974.10.9【裏面記録より】


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